「現実」と「思想」の対比


 色のない現実。私はどうすればいい。

 学校を休んだ。昨日も休んだし、一昨日も休んだ。明日もきっと休む。
 この日は楽しかっただろうか? 楽しくはなかった。気分は悪いし、罪悪感だってある。でも学校に行けば、それが改善されるかと問われれば、NOとしか言えない。行っても地獄。行かなくても地獄。生きている限り、地獄?

 地獄というには、血の匂いがしない。死の匂いもしないし、悲惨な感じもしない。自分の作った夕食はもちろん、自分好みに作っているのだからおいしかったし、ちゃんと昼間、外に出て散歩していたからお風呂も気持ちがよかった。

 今日この日は、地獄というより天国に近い一日であったはずなのに。それなのに、こう、何というか……全てが現実的すぎるこの感じに、私はどうしようもない不安を感じて身震いした。

 今日のように毎日を過ごしたまま、死んでいく。その時やりたいことをぼんやりとやっているだけで、一日が過ぎていく。義務もなく、責任もなく、ただ享楽に浸ったまま、人生が終わっていく。
 そう想像して、戦慄する。そんなの、嫌だ。おぞましい。怖い。恐ろしい。
 それが一番恐ろしい。何かをしなくちゃいけない、と私の心が叫んでいるのが分かる。


 何かをしなくちゃいけない。でも何をすればいいのか分からない。ゲームをするのも、絵を描くのも、漫画を読むのも、全部楽しむためだけで、それ以上の意味はない。先に言ったような「享楽」でしかない。もっと具体的で、意味のあることをしたいのに、私にはそれが分からない。

 とりあえず数学の問題集を持ってきて、開く。何かを考える前にたまたま開かれたページの一番上にあった問題を二、三分で解くと、自分が安心しているのを感じた。安心? ただの思考放棄じゃないか。これも享楽のひとつにすぎないのに。
 数学の天賦の才も、才能を覆すほどの数学への愛もない。当然数学の道に進むわけでもないし、そもそも大学は文系の学部にする予定なのだから、これにはほとんど意味がない。それをやって安心するのは……ゲームをしたり漫画を読むのと何も変わらない。
 単なる現実逃避だ。

 じゃあ現実逃避じゃないことってなんだ! 勉強することも、友達とおしゃべりすることも、気晴らしに散歩することも、全部現実逃避じゃないか。だってその先に待っているのは、色のない現実だけ。


「あなたは何がしたいの? 将来の夢はないの? 目標は? 理想は?」
 何もないのだ。私には、何もない。だからこの色のない現実を噛み締めて、惨めに微笑むのだ。それが「普通」である私。

 現実の色をただただ率直に描き出すのは楽しい。これは私に似ているが、私じゃない人間の独り言だ。
 私はこういう人間を描くことが楽しい。これだけは、現実逃避ではないように思うのだ。
 自分の惨めで救いがたい現状をフィクションにして記録する。それを誰かが見て、その人はその人自身の感性で、この人を見る。
 共感なんて、あやふやな言葉ではなくて、その人自身の過去や欲望や才能を自覚する。

 だってそうだろう? 本当は言葉にできないだけで、「分かる」とか「私もそうだった」なんて思ってもいないんだ!
 もっと複雑で語り尽くせいないような気持ち、悩み、過去、そういうものがその人に訪れている。それが自分の心に響くから、響いたことを伝えたくて「共感」とか「理解」とか、そういう好意的な言葉を使うのだ。

 私はその奥にあるその人自身の特性、能力、愛情を想像する。そうすると、私はひとりではないと思うのだ。

 「人間は平等ではないけれど、対等ではあるのだ」
 そう思えるのだ。

 私が求めているのは、全ての人間が平らな土地に同じように立っていることではなくて、ひとりの人間とひとりの人間が、向かい合って微笑んでいることなのだ。
 世界はそれだけで十分なのだ。

 顔を合わせられない人間と平等である必要などない。ただ手の届く範囲の人に対して、私は誠実でありたい。親切で、情深い人間でありたい。

 
 私は時々、もっと小さい世界が欲しくなる。それはきっと私の体も心もこの広すぎる世界と比べてあまりにも小さいからだと思う。
 そうであれば、私はこのように自分の矮小さを不安に感じたり、悲しく思ったりせずに済んだことだろう。

 でもこうであるべきだったのだから、私はそれを認めなくちゃいけない。不安に感じたり、悲しく思うのも、正しい事なのだ。


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