ゲーム感覚で生きること。ティファレトについて

 今私が書いている小説の主人公は、ゲーム的な感覚で生きているように私には見える。
 『ティファレト』という物語の、レイア、という人物。両親が殺されても「両親のことは嫌いだったからせいせいする」と何事もなく語る。そこには、一切の葛藤が含まれていない。
 ゲーム的だ、と思う。人生の重さ、のようなものが感じられない。
 あの世界は総じて、そうだ。生というもの自体が安くて軽いものとして取り扱われている。ティファレトに家族を殺されて、ティファレトに復讐心を抱く『ティファレトを殺す自由の会』も、どこか……真剣味が欠けている。面白そうだから、という理由で命を懸けている。

 人間は、もっと重たい生き物だ。生きるか死ぬかの状況に追い込まれると、ひとりひとりがあまりにも強く大きな葛藤を抱き、その中で壊れていく。でもゲームの中の登場人物は、壊れてはいけない。壊れたら、筋書きが崩れしまうからだ。あの物語は、そういう「都合のよさ」のようなものが、出てきている。私自身がずっと避けていたはずのものが、何も考えずに書いたあの作品からはどうしようもなく垂れ流されている。
 まるでそれがひとつの世界観であるかのように。

 人間は軽い生き物だ。命も、心も。皆が「空しい」と言っている。欲しいものが全て手に入って、満たされていて、好きなように生きられるあの社会で、人々はなぜかゲーム的になっている。自分の人生が、暇つぶしでしかないかのように費やされていくことを、何の疑問も抱かずに受け入れている。
 人が死んでも悲しまない世界。なんで悲しまない? いくらでも、ロボットが自分の気持ちを慰めてくれるから。頭の悪い人は、目の悪い人は、ロボットに入れ替わっていることにしばらく気づかない。

……こんなこと考えたくないけれど、私のはとこは死んだとき、彼が死んだことによって生活が一変したのは私だけだった。他の人にとっては、何も変わらないことだった。命は安い、と思った。軽い、と思った。しょうもない、と思った。

 悲しみも、時間が経てば消えてなくなる。その苦しい間の時間を、薬物や幻想によってスキップできてしまう世界なら、自分が死ぬことも、誰かが死ぬことも、もはや悲しくないのではないか? もはやそれは、ゲーム的な世界なのではないか? 自分という存在はしょせん、社会を動かすための「ノンプレイヤーキャラクター」でしかなくなってしまうのではないか? ノンプレイヤー……いや、違う。「プレイヤーキャラクター」なのだ。そう。プレイヤー。遊んでるだけなのだ。あの世界のおかしな部分は、そこにある。必死さが足りないのだ。もがいていないのだ。よりよい存在になりたいとか、よりよい社会にしたいとか、手に入らないものを手に入れようとか、そういう気持ちが一切なくて、ただ日々を過ぎ去るままに過ごしている。
 極度に自己肯定的で、憂鬱に囚われることがない。いやきっと、憂鬱に囚われたら、ロボットの体に逃げる。薬物に逃げる。それによって、苦しまずに済むようにする。楽しく、充実感をもって仕事ができるようにする。おぞましい。おぞましすぎる!

 あまり趣味のいいことではないが、あの物語がこの先どうなる予定か、もう説明してしまうことにする。私はあの作品が書けないから。

 ティファレトは元々ある計画によって生み出されるはずの存在だった。セフィロト計画。十の、それぞれ異なる新生命体を作り、彼らにそれぞれ別の小さな島を分け与え、統治させるという計画。それは不老不死を実現させた一部の知的階級の暇つぶしの一環でしかなかったのだが、それは……とても深刻な問題だった。というのも不老不死になったはいいが、その時点で自分たちが『どのように死ぬか』という問題が、大問題として提起されたのだ。ただやみくもに長い時を生きても苦しいだけである。しかし、せっかく不老不死になって多くの知識を手に入れたのに、それを全て投げ出して他の人間と同じように野垂れ死ぬのは、プライドが許さない。だから彼らは、意味のある死を求めていた。
 セフィロト計画が計画通りに実行されていたら、その過程で数千人規模の知的階級の人間が自ら望んで人柱になる予定であった。しかし、そこまで深く絶望していた人間はもっとごく少数であり、そしてその少数の犠牲で十体の人間以上の高度な知的生命体を作るのは不可能であることは明白だった。そこで、その計画に賛同した人員だけでできる小規模な計画を実行に移すことになった。名前はセフィロト計画のままだったが、十のセフィラのうち、中央の三つ、倫理的三角形を結ぶゲブラー、ケセド、そしてティファレトの三体を作り上げることとなった。

 選ばれた島は、彼らの計画が実行しやすい安定していて小規模な島。怪物に対する恐怖心があまり強くないような、生存への意識が低い島が選ばれた。

 三体にはそれぞれ別の特徴があった。

 ゲブラーは力。権威。圧力。暴力。それは巨大な体躯の機械であり、精神も非常に頑強で、生存に必要なものは、破壊。ゲブラーは機械的な統治モデルを実現させるべく産み出された。

 ケセドは慈悲。寛容。優しさ。三体の中でもっとも人間に近い体を持っていたが、しかし同一体を無限に産み出す自己複製能力を有しており、さらに、それぞれの個体が電気信号によって相互通信可能な、群としての生命体であった。生存に必要なものは、拡大。その自己複製機能を常に稼働させなくてはならない。ゆえに、ケセドは人間のために自らを消耗させる必要があった。自己犠牲的な統治モデルを実現させるべく産み出された。

 最後に、ティファレト。美と調和。そして……変容。生存に必要なものは、食事、すなわち代謝。あらゆる稀有な人間の特徴を内在させることによって、何よりも美しく、何よりも高度な個体として存在するべく産み出された。宗教的な統治モデルを実現させる予定であった。

 ゲブラーとケセドは、計画通りに二年でその島を統治するに至った。しかしティファレトは、その美と調和という特性がゆえに、「自分が統治者になる」という未来を無意識的に拒んでいた。自分が支配する世界は「美しくない」と彼女の体は判断していたのだ。

 ゲブラーとケセドはティファレトに接触する。ティファレトはケセドに触れ、優しさというものを教示される。だが、ティファレトは悩んだ末に、ケセドと決別する。ケセドの優しさは美しくなかったのだ。
 ゲブラーに憎しみと暴力の美しさについて講義を受けるが、それも受け入れない。ティファレトにとって、ゲブラーはあまりに単純で、くだらない存在に思えた。

 しかしティファレトは、ケセドに接触したことによって「罪と罰」という感覚を身に着けてしまう。人を食べることを、拒むようになってしまう。ゲブラーに接触したことによって「力、支配の喜び」を知ってしまう。自らの内に、レイアを支配したいという気持ちが芽生えるのを理解する。
 対してレイアは、ティファレトに興味を失っていく。それもそのはず、ティファレトはケセドと出会ってから、人間ではなく人間より単純な家畜の脳を食べて飢えをしのいでいたせいで、ティファレトの脳構造自体が単純になり、レイアにとってつまらない存在になりつつあったのだ。
 ケセドはティファレトがそのような状態になってしまったことに責任を感じ、ゲブラーと相談した結果、ティファレトにレイアを食べさせることを決定する。
 だが、そのままレイアを食べさせるのではなく、ゲブラーの島に存在する高度なクローン技術を利用し、レイアの複製体の脳を摂取させることに決める。レイアもそれに同意し、定期的に自らの複製体をティファレトに食べさせることになる。
 レイアの脳を食べたティファレトは、すぐに体調を取り戻す。しかしどんどん自分と似た性格になっていくティファレトに、レイアは困惑する。もうひとり自分がいてもつまらないと、レイアは正直にティファレトに告白する。ティファレトは、まるでレイア自身がそう言うかのように「それもそうだね」と冷静に納得し、他の人間を食べることを決定する。しかし、彼女はそれまでのように問答無用で誰かを食らうのではなく、複製体を自ら捧げたいと思う人間を募り、その人間の脳だけを食らうことに決定する。そして、その見返りとして相手の悩みや人生の問題をその優れた知性によって解決する、というシステムを議会で承認させ、ティファレトは晴れて島の一部として正式に機能することになる。(それもすべて、合理的かつ非人間的なレイアの思考に影響された結果であった)

 とりあえずここまで。ここまでは考えた。でも気分が悪い。とても気分が悪い。私はこんな話書きたくない。


追記。やっぱ書きます。

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