過度な教養と娯楽

 本来教養と呼ばれているものと娯楽と呼ばれているものの間には、一切の境界が引かれていない。

 たとえば江戸時代後期に流行った「南総里見八犬伝」は、当時では完全に娯楽作品で、それを「教養」やそれに近しいものとして扱ったなら、笑われていたことだろう。

 だが現代では、こういう作品に目を通しているというのはひとつの教養として扱われる。
 「面白くないから」ではなく「難しいから」だ。難しいものを楽しむには、よい目と豊富な知識が必要であり、そのよい目と豊富な知識のことを「教養」と呼ぶのである。
 あらゆる娯楽作品は互いに影響し合っており、特に古く有名な作品は、読めば読むほど他の作品も読みやすくなる。前提知識が重なることが多くなるからだ。

 そういうわけで、現代の漫画もおそらくは、後の時代の「教養」として扱われることだろう。今この時代、火の鳥、鉄腕アトム、ブラックジャックなどの手塚治虫の代表作がそろそろ教養として機能しつつあるように、だ。


 さて、そのような時代の流れにあってなお、多くの人たちは「教養=難しくて退屈なもの」「娯楽=楽しいが役に立たないもの」という印象を持っている。
 それはどの時代でもそうだったが、近年ではその傾向に少し変化がみられる。娯楽に、教養の要素が意図的に入り込むことが増えたのだ。
 反対に、教養の中に娯楽的要素が入り込むようにもなっている。
 言い方を変えれば、教養と娯楽は決して対立するものではなく、むしろ相性のいい、共にあるべきものであるという考えが、世間一般に広く知られつつある、ということでもある。

 教養は娯楽の幅を広め、娯楽の幅の広さはすなわち教養となる。
 役に立たない娯楽とは、特定の狭い範囲で浅い楽しみを続けることであり、特定の娯楽についての知識や経験を深めたり、広い範囲の娯楽を開拓しようとすることは、それそのまま教養として扱われうる可能性を持つ。

 もちろん最初に言ったように「知識」だけでなく「よい目」がなくてはいけない。
 「よい目」とは何か。見えないものを見て取る目。想像力や思考力などのことだ。そこに明記されていないが暗示されている何かを感じ取って、それを自分流に解釈することだ。

 教養も娯楽も、ちょっぴりであるうちは本人の役に立つ。通常教養というのは大半の人間が持っておらず、理解もできないものなので、それがほんの少しあるという状態が、もっとも多くの人間からの尊敬を集められる。
 「豊富な雑学」が、もっとも豊かな教養であると、大衆は判断するのである。その知識から得られる知恵や判断力、想像力や思考力は、凡人よりほんの少し優れているくらいがちょうどいい。そうれであれば「同じ人間として」褒めてもらえる。

 娯楽の方もまた、人というのは自分の知らない楽しみを持っている人間に、奇妙な反感を持つ生き物である。
 たくさんの楽しみを知っている人間や、あるいは深い楽しむを知っている人間は、それだけで距離を置かれてしまう。尊敬されたり崇拝されたり応援される場合においても、結局は「距離の感覚」がそこにあるので、本人にとって不都合である場合は少なくない。
 そいうわけで「誰もが知っている娯楽をちょっとだけ知っている」という状態が、人間にとってもっとも都合のいい状態である。

 つまるところ、教養も娯楽も、全く知らないのは問題だが、適度に貧しいということが人々から褒められる最大の要因なのである。彼らの気に入るような言い方をすれば、教養も娯楽も、清貧というのが好ましい、というわけだ。


 では教養や娯楽が過剰である場合、どのようなことが起こるか。これは非常に危険であり、どうなるか分からないものである。
 娯楽の方は、そもそも過剰にものごとを楽しめるというのはひとつの才能であり、無尽蔵の活力がなくてはできないことである。
 たとえばひとつの楽しみに追及する才能がある場合、スポーツ選手やアーティストとして成功する可能性がある反面、それを目指したがばっかりに挫折し、周りから蔑まれ、それでいて今更娯楽という点で「清貧」にもなれず、貧しい娯楽に甘んじることに満足できなくなる。
 そしてそういう「娯楽という点で貧しいものしか知らない人」を見下す傾向はしっかり残るため、大衆との間に壁を作ってしまう。深い娯楽を知っている人間は、誰もがそういう危険にさらされている。
 広い娯楽の方はどうだろうか。こちらは、大衆から理解される分、嫉妬されることも多い。通常彼らは簡単なことをやっているようにみえるが、実際はそうではない。ただ、たくさん動き、たくさん楽しみ、たくさん笑い、たくさん泣くということは、非常に快活で大きな器と、完全に自立した精神性が必要だ。
 娯楽というのは、ひとりで楽しめるものもあれば、人数がいないと楽しめないものもある。たくさんの娯楽を楽しむ能力のある人間というのは、とても器用かつ、本人自体がどんなものでも楽しもうとする類まれな才能を持っていなくてはならない。あらゆる不機嫌を吹き飛ばしてしまうだけの、人格上の高貴さが必要なのである。
 こういう人たちは、社会的な成功者になることが多く、広く尊敬を集めるが、同時に、ただ深い娯楽を知っているだけの人よりも強い嫉妬の目に晒されることが多い。
 だがこの場合はあまり大きな危険はない。というのも彼らの上機嫌、楽しむ能力は非常に優れているので、他者の嫉妬や邪魔程度では、それが損なわれたりはしないからだ。
 彼に危険がある場合は、家庭を持った場合であろう。大半の人間にとって、彼のような人間は「友人」として関わる分にはとても好ましいが「家族」としてはとても迷惑であることが多い。男女ともにこういうタイプは浮気もするし、不正をはたらくことも珍しくない。どんなことでも楽しめるとは、すなわちそういうことであるのだから。
 彼の危険は、精神的な不健康というより、社会的な破滅であろう。ただこれに関しては、しっかり手綱を握る人間がいれば問題ない。


 娯楽を過剰なほど楽しめる人間は、実のところそれ自体が原因で大きな危険に晒されているわけではない。教養の方に主な原因があるのだ。
 通常、教養というのは深いほど、広いほどよいとされているが、そんなことはない。
 たとえば先に深い教養の話をするが、深い教養というのは、基本的に同じ深度の人間としか、共有の喜びを味わうことができない。それを知らない人間のことは無知であると無意識的に判断してしまうし、その「距離の感じ」が当然のごとく、人間関係によくない感情をもたらす。
 「オタク」と呼ばれている人たちが嫌われる理由である。彼らはその分野における知識や経験を豊富に有しているので、その対象にまつわるたくさんの喜びや幸せを知っている。その分、浅瀬でじゃぶじゃぶしている人間を軽蔑する傾向にあり、その言葉遣いや態度が、どこか頑固で、他者と知見を共有したがらないものであるように捉えられる。(実際には、共有したがらないのではなく、共有できないのである。彼らにとっての当たり前は、他の人間にとっての当たり前とあまりにかけ離れている)
 実際には、当然のことながら、広い知識も深い知識も持っていない人間が、オタクと呼ばれる人々の、喜びをもたらす深い知識や経験の価値を知っているかというと、たいていはそうではない。この場合、より尊重されるべきはオタクの方であり、近年では大衆のレベルで彼らへの敬意が生じてきている。
 「彼らはどうやら、私たちよりもある点においては偉いらしいぞ」というわけである。

 次に広い教養。こちらはあまり害になることはない。これは言い換えれば「雑学」であるからだ。人からその尊敬を集められるし、誰かの素朴な疑問にもすぐに答えられる。何かを深めたいときに、その土台をすでに十分に用意できているため、速やかに深めることができる。
 オタクとも相性がいいし、こちらは、これ自体では損になることが滅多にない。
 通常「教養」と言ったとき、人が追い求めるのはこれであることが多い。
 だがこれは、あくまで「ある特定の広さと深さまで」の話だ。
 ある一定より深くて広い教養を手にしたとき、人は「思想を持つ権利」を得る。つまり自分の頭で考えるだけの土台をそこでやっと獲得して、さらに自分だけの何かを「積み上げる」ことができるようになるわけだが、これがもっとも危険なのである。
 幅広い知識や経験を知っており、あらゆるものごとの「深さ」にも理解がある。つまりそこから、色々なものを盗んできて、別の場所にも適用することができる、ということ。
 別々の海からとってきたサンゴや真珠を、地上に並べて、品評できるということなのだ。さらにはそれを加工したり、混ぜたりして、新しい世界を作ることもできる。

 当然その試みの中では、奇妙な怪物を呼び出してしまったり、「浅くて狭い場所で住む人たち」に対する吐き気が抑えられなくなったり、触れてはならないものに触れたせいで狂ってしまったり、そういう危険が当人に付きまとう。
 そういった現象に耐えられるかどうかは、当人の精神の頑強さと、それまで学んできた「教養」という武器の出来とその扱い方次第だ。広く深い教養や娯楽によって生じた「思想」という危険は、当の教養や娯楽によって耐えるしかないのだ。
 一度こうなってしまえば、より広い範囲の、より深い教養や娯楽を求め続けなくてはならないし、たいていはそのうち、当人の気力や精神の安定が損なわれ、不眠症になったり、対人関係における嫌悪感が抑えられなくなったりして、現実的な意味でひどい目に遭う。
 自分の精神の大きさに相応しい場所に安住するには、彼の住処はあまりに広く、多くのものが彼を愛し求めてしまうので、彼はその喜びと苦痛で通常の生を送るのが困難になるのだ。

 そう、教養というのは、それ自体が人間を誘うものであり、特に深い教養というのは、その魅力を持って才ある人を惹きつけてしまう。それがたったひとつであるならば、居場所を見つけてオタクになってそれでおしまいだが、複数の深い教養を持ち、なおさらなる教養を求める人間は、たくさんの教養から求められ、それらを和解させたり、あるいは戦わせたり、たくさんの創意工夫に迫られ、その成功も失敗も、彼を喜ばせると同時に、疲労させる。
 そしてそのような、内的な世界で起こっていることは、狭くて浅い場所に安住している人には決して理解できるものではなく、もはや嫉妬するも難しいので「人間扱い」されることがなくなってしまう。
 分かりやすい例をあげるなら、仏教とキリスト教の知識と経験をどちらとも豊かに摂取した人間は、その二つの宗教の矛盾の間にどうしても苦しむしかないことだろう。そして何とか、それら二つの怪物に対抗できるような「自分自身」を作りあげたとしても、それはもはや「人間扱い」されるようなものではない。

 もはや彼は通常の人間と対等ではないのだ。どちらの側も、そう感じずにいられないのだ。

 現代では、自らの教養に疲れ、うんざりしている人がたくさんいる。
「教養が何の役に立つだろう……」
 その言葉をつぶやくのは、教養を全く持っていない人間だけでなく、教養を持ち過ぎた人間も同様である。最初に言ったように、教養というのは「少し」が一番役に立つのだ。

 ただ、君たちにひとつ忠告しておこう。「教養」というのは、老い以外の方法では捨てられず、酒やたばこで一時的に癒すことはできるが、基本的に私たちの体を確実に、着実に、蝕んでいく。
 一度学んでしまったなら、もう戻れないのだ。だから、戻ろうとするのをやめるしかない。
 「役に立つ」「役に立たない」という、浅くて狭い価値判断をやめ、私たちはより危険な方へ向かわなくてはならない。
 同時に私たちは、その危険に立ち向かうだけの健康さと頑強さと休息を必要とする。

 おそらく、もっとも動物的になることを欲しているのは私たちだろう。つまり私たちはいつも、肉体の放蕩を求めているのだ。そういったものが、一番私たちの精神的な病気をよく治すからだ。
 うつ病、統合失調、その他もろもろの明確な原因の見つからない精神的な病気は、高級な食事と、気品ある人々との社交、及び優れた異性とのセックスによって、たいていは一時的に改善する。
 結局私たちが健康のためにいつも必要としているのは、それなのだ。適度な緊張と、高揚感、そして一時的な陶酔。何よりも重要な条件は、それが「高級」であること。
 食事も社交もセックスも、相手が低級であったり凡庸であったりすると、私たちのプライドが傷つき、余計体調が悪くなる。
 だからこそ「馬鹿でも分かる優れた経験」が、私たちの愚かなプライドと、疲れ果てた精神を癒してくれるのだ。

 言っておくが、自己卑下する人ほど、そういったものを必要としているのだ。そういったものがないから、病気になるのだ。
 当然のことながら、あなたはそれに相応しいだけの能力を持っているのだ。教養とは、そういうものを獲得するための力としての役割も果たすのだから……


 倫理や道徳なんかに取りつかれていては、私たちの疲れは癒せない。私たちは社会というものを理解しているから、それに問題がない範囲で、もっと自由奔放に、たくさんの単純な喜び、つまり愚行を、己に赦さなくてはならない。
 そうでなくては、私たちは疲れ果て、健康を損なってしまう。

 君たちが真面目になって「そんな風に悪い人間になるくらいなら、教養など捨ててやる」と言ったところで、君たちが倫理的になればなるほどに、教養というものは力を持つ。君たちはどんどん疲れ、目はくぼみ、頬はやつれ、なんだか何もかもがどうでもよくなってくることだろう。
 君たちはおそらく、自分勝手で残酷な英雄にならなくてはならないのだ。そうなるだけの権利と材料は、もう十分揃えているんじゃないか? つまり……教養、を。
 あらゆることを禁じてきた者たちの歴史と、それから解放されてきた者たちの実例を、あなた方は嫌というほど知っているのではないか?
 知識だけでなく、経験という点においても。


 ただこの現代日本社会での最大の問題は「高級なもの」の欠如であるかもしれない。こと社交と性に関しては、高級なものは滅多に見つからないうえに、見つかった傍から大衆が押しかけて低級なところまで引き下げてしまう。

 金によって足切りをしても、結局品性の欠落した成り上がりが多すぎて、上品で楽しい付き合いができる場というのはこの社会にはもうほとんどない。
 この時代そういうのは、個人的に作った方がいい。

 どこでどのように私たちの心を休めるか、という問題は非常に重要な問題で、無頓着であってはならないのだ。
 私たちにとって、娯楽とは活動であり、食事、社交、性などは、活動というよりその合間の休息である。それは多少愚かであっても構わないのだから。
 場合によっては「仕事」もまた、休息としての機能を果たすかもしれない。
 その場合、私たちにとっての「仕事上の失敗」とは、その仕事が楽しくなくて、うんざりしたときのことを言うのであって「仕事がうまくいかなくて、それについて悩んでいる時」はむしろ、その仕事という名の休息はうまくいっていると考えていい。

 結局私たちはいつも、一時的な自己放棄を求めている。
 教養を持ちすぎるがゆえに、だ。


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