「話のレベルを下げる」ということについて

話のレベルを下げるとはどういうことか


 知識的なレベルではなくて、理解力的なレベルの話。

 ゆっくり話すことや、ていねいに説明することは話のレベルを下げることではない。

 話のレベルを下げるというのは、難しい内容や真面目な内容、深刻な内容や発言の責任が伴う内容を避けて話を進める、ということである。
 つまり、コミュニケーションの質、情報伝達の精度自体を低く見積もって、相手が受け取れる分の情報のみにしぼる、ということである。

 ある程度コミュニケーション能力に長けている人ならば「話のレベル」を下げるという経験が多々あると思う。
 「相手の話のレベルが高すぎて、ついていけない」と思うことが多い方もいると思う。私も、そういう経験が何度かある。
 「もう少し情報の密度を下げてほしい、そうじゃないと処理しきれないから」と。


話のレベルを下げた際に生じる感覚

 人と人との間の優劣というのは測りがたいものではあるが、話のレベルを一方的に下げると、その時点で人は奇妙な感情にとらわれる。

 「相手に合わせている」という事実から、自分がへりくだっているような気持ちになり、屈辱とともに「従者」としての感情を抱く。
 と同時に、相手の理解力が自分の理解力よりも明らかに低いという事実から、奇妙な優越感をも感じる。それだけでなく、その優越に溺れることなく、相手の立場まで降りていくことのできる「立派な自分」を感じることで、さらに自尊心が高まるのを感じる。

 これは人にものを教えるときによく感じる奇妙な二方向への感情である。(それは二律背反というよりも、二つの相いれないわけではない異なる感情が同時に湧いてくる、というのが正しい)


 自覚している人と自覚していない人の違いはあれど、人は皆、他の人に何かものを教えるときや、日常生活を送る際の利便性に基づいて「レベルを下げる」ということをやっているものだと思う。

 少なくとも日常的に文章を書いたり読んだりしているnote利用者のほとんどは「相手に伝わる」ということがどういうことか理解していることが多いと思うので、やはり「レベルを下げる」ということに関しては、自覚がある人が多いと思う。


不都合な感情

 感情というのは生じないようにするのは無理で、ただ自覚することによって、隠し、その感情に流されないようにすることだけが可能である。

 人は基本的に見下されるのが嫌いであり(見下されるのが好きな人も一定数いるが……)人から一方的に奉仕されることも、あまり好まないことが多い。

 人にものを教えたり、レベルを下げて話すというのは常に必要とされる行動ではあるが、そこで生じる感情や感覚は、非常に私たちの人間関係において不都合である。
 もし社会的な立場上、自分が優位に立っているという感情を隠さなくてもいい場合はその限りでもないかもしれないが……しかしそれも難しい問題である。
 「教えてやっている」という態度の教師や上司は、たとえそれが事実だとしても、その教師や上司自身にとって、よい結果を及ぼすことは少ない。少なくとも、強い立場を利用して強権を振るうことが許されなくなりつつある現代において、そのような態度が利益につながることは、この先減っていくことだろう。

 私たちは社会の流れの中で、自分たちに自然に生じうる感情を抑えて生きることを要求されている。


現代社会で求められる複雑な演技

 私たちは話のレベルを下げる際、できる限り「レベルを下げている感じ」を出さないように気を配ることを求められ、それができていないと「頭はいいが、人間としての出来は悪い」とみなされる。
 それはある意味では正しくて、ある意味では間違っている。というのも、人からそのように思われることはその人にとってあまりにも不都合であり、その不都合性に気づかないということ自体が、頭の良し悪しとは別に「人間としての出来が悪い」という事実を作り出してしまうからである。

 平等主義が常識となっているこの現代社会において、私たちは常に、へりくだりつつ、優越を感じつつ、対等であるかのような顔をして言葉を話すことを要求され、それに慣れ、それ自体が私たちの話し方の癖になりつつある。
 それ自体の是非は問わないにしても、どこか奇妙な印象を私は抱かずにいられない。

 あまりにも複雑な演技を、人間関係の大前提として求められている。


もてはやされる「傲慢な人」

 そんな時代に産まれてきた若い世代は、それが当たり前になりすぎて、逆にそうでないものを尊敬し始める始末である。つまり、その「レベルを下げてこと」で生じる優越感やへりくだるときの不快感を素直に態度や言葉に示すような人物が(つまり現代で言う「傲慢な人」が)もてはやされることが増えてきている。

 それは一種の自然状態であり、無理をしない態度であり、おそらく日々無理をして生きている人にとって煌めいて見えるのは極めて自然な無意識的な趣向性だと思われる。それはある意味、コンクリートに囲まれた生活をしている現代人が、大自然の中で生きている部族社会人を眩しそうに見つめているのに似ている。


終わりに

 私は自分の感情のコントロールを外すことが苦手で(おそらく私自身、いつかは自分の感情を過度に隠すことをやめるようになると思う)話のレベルを下げるのも疲れるからあまりしたくないと思っている。
 noteは気楽にやっている。ほとんど自分の思ったことをそのまま言っているから、話自体を整えたり分かりやすくすることは多いけれど、話自体のレベルはほとんど下げていない。

 私は人と実際に話す際は相手に合わせて話を進めるが、文章を書くときは、読み手の方が私に合わせて欲しいと思っている。

 そもそも「レベルを下げる」ということは、どうしようもなく失礼なことなのだ。だが、失礼でありながら、親切でもあるのだ。
 厄介な人間らしさであると、私は思う。

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