自分自身のこと⑤

 昔のことを語ろうにも、何を語っていいのか分からなくて、困る。考えれば考えるほどどつぼにはまって抜け出せなくなりそうなので、最初に思いついたことを語ろうと思う。のだが……それならいつも書いてる随筆とあまり変わらないのでは? ということに気が付いてしまった。

 あぁなるほど。無人格的に書こうと意識して書かれたもの以外は、基本的に自分自身のことを語っているのとそう変わらないのか。というか……そもそも「自分を語る」「自分の過去を語る」ということは、物語を書くときにあるキャラクターを描くのと同じように、自分という存在のある一面を切り取って飾り付けるようなものだから……

 たとえば自分しか見ないと分かってて書くものなら、ある程度文法とか文脈がめちゃくちゃでも、自分なら必要なところを補って読むことが簡単にできるから、構わない。でも知らない人が見ることを前提に書くのであれば、ある程度形を整える必要はあるし、私という人間をほとんど知らないことを前提に語らなければならない。当然……思いついたことをそのまま語ればいい、というわけではない。

 自分が今までどうやって文章を書いていたのかふいに分からなくなった。と言いつつも、今私がなんだかんだ書き続けているように、書けなくなったわけではないし、今の書き方がダメだと思っているわけでもない。どちらかというと「分かっていなかったことに気づいた」というのが正しそうだ。

 そうか。じゃあ今日は、文章や本について、過去にさかのぼって語ろう。

 字を読めるようになったのはとても早かった。何歳何カ月かは覚えていない。言葉を話すようになってすぐに字に興味を持ち、時計が読めるようになり、歌を歌うようになり……まぁ、親の言うことなんて、どこからどこまで本当か分からないけれど、早かったことだけは確からしい。父も母も私のわがままをできる限り聞いてくれたようだし、あと……両親の教育方針として「してはいけない」と「しなきゃいけない」は極力減らすようにしていたらしい。私自身の「こうしたい」と言うことに関しては、可能な限り、準備を整えて、本人に苦労をさせたうえでそうさせる、という方針であったらしい。全くそんな風に育った記憶はないのだが……まぁ両親に尋ねるところによると、そういうことらしい。
 実際、私は健康に育った。わがままではあったけれど、その分他の子のわがままに対しても寛容だったし、お願いされたことを快く引き受けることも多かった。「誰かやって」と言われたら、率先してそれをやるタイプだった。いやもちろん、自分の用事より優先させるようなことはまったくないんだけど。暇なときは、親切に。それだけだった。

 本をいつから読み始めたのかは覚えていない。うちには絵本がたくさんあるが、私は絵本を読むのがあまり好きだった記憶がない。でも母によると、同じ絵本を何度も読むようしつこくねだっていた時期があり、すごくめんどくさかったけどなんだかんだ読んであげていた、とのこと。あと、読んでもらおうとする時のテンションは高いのに、実際に読み始めるとつまらなかったのか、勝手にどこかに行っちゃうことがあって、それがすごくむかついたことを覚えている、とのこと。まぁ無理もないなぁと思う。自分で言うのもなんだが、かわいらしい。
 そのうちひとりで絵本を読むようになるとすぐに絵本に飽きて……あと、お父さんがよく読んでいる本にすごく興味を示して、それをお父さんに色々聞きながら読んでいた、とのこと。それはほんの少し覚えている。「砂丘」がなんで「さきゅう」と呼ぶのか(発音するのか)、ということをしつこく尋ねた覚えがある。なんで「すな」が「さ」で、この変なあまり見ない「丘」という字が「きゅう」なのか、数字の「きゅう」とか「急に」の「きゅう」と何か関係があるのかとか、本当にしつこく聞いて、普段私に全然嫌な顔をしない父が、もんのすごく渋い顔をしたことを、なぜかそれだけを克明に覚えている。父が音読みと訓読みがあるという説明をしても、音読みは中国語的な発音だと言っても、実際に中国人が砂丘のことを「サキュウ」とは読んでいないという事実を持ち出して、さらに父を困らせた。我ながらめんどくさい娘だ。

 小学校に入る前に、ハリーポッターを全部読んだことを覚えてる。読み終えたうえで「ハリポッターはよくできた作品だけど、でも他のファンタジー作品と比べて飛びぬけて面白いわけじゃない。私はこれが何でこんなに流行っているのか分からない」という意見を持ったことを今でも覚えている。そう人に言ったことも覚えている。でも私は当時あれを一度しか読んでないし、そもそもちゃんと読めていたのかどうか怪しいので……うん。
 ファンタジーは読みやすかった。童話もたくさん読んだ。芥川龍之介とかその辺の児童文学も読んでいたと思う。
 あと、漫画。漫画をたくさん読んでいた。ジャンプとか、少女漫画とかはあまり好きじゃなくて、手塚治虫とか、少し古い漫画家の、名作と言われている作品に触れることが多かった。あぁ。少年漫画とかでも、父も母も結構話題作は読む人だから、両親が勧めてくれたものを片っ端から読んでた。母は少女漫画を時々TSUTAYAで借りてくる人だから、私もそれを読んでたけど、なんで少女漫画っていつもワンパターンなんだろうと思って、あまり面白いと思えなかった。目でかすぎるし。かっこいいだけの男の子にあんまり魅力を感じなかった。テンション高すぎる主人公にも、自称普通の子にも。感情移入するには、あまりにも私は他の人とは違うタイプの人間だった。漫画を読むときも小説を読むときも、私は「なりきる」というよりは「心の中にお邪魔する」ような気持ちで読んでいた。登場人物の気持ちを想像しながら、自分事のように捉えながら、読んでいた。
 うちには元々哲学書が結構置いてあって、それに触れる機会は多かった。全然理解できなかったけれど、頑張って読んで、少しでも自分自身の意見を持つことができたら、両親にそれを話した。父は真剣にそれに返してくれた。母も……まぁ常識的でつまらない意見ばかりだったけど、ちゃんと答えてくれていたと思う。はじめのころは。
 何から読み始めたかは覚えてないけど……かなり早い段階、小学生低学年ごろにすでに読んでいたと思われるのはデカルトの『方法序説』プラトンの『ソクラテスの弁明』『饗宴』とか。まぁ多分、ほっとんど理解せず、ただ字を目で追ってただけだと思う。あと、トマス・アクィナスの『神学大全』とかも、一応目を通していた。これは本当の意味でまったく理解していなかったのだが、中世ヨーロッパという世界がどんな世界だったがすごく興味があって、頑張って読んだのを覚えている。ファンタジーとか、漫画とかの影響だと思う。キリスト教の悪口聞く機会も多かったから、あの時代で一番賢かったキリスト教徒って誰って父に聞いたら「影響力に関してはアウグスティヌスかトマス・アクィナス」って教えてくれたから、その両者を読んだんだと思う。(追記。なぜダンテの名が出てこなかったのか疑問に思って、最近それを聞いたところ、普通にただ忘れていただけだったとのこと。ちなみに私はまだ神曲読んでない。父も読んだことがないらしい)

 あとそれとは別に、現代の専門家が書いた初学者向けの本も、結構読んでたと思う。正直そっちの方が読みやすかったんだけど、まぁ何というか、実際に自分で読んでみて「違うんじゃないか?」とか「一方的なんじゃないか」と思うことも多かったから、やっぱり古い本を優先して読むようにしていたと思う。父がそう勧めたからかもしれない。父はそういうタイプの人だ。大多数の人の意見よりも、自分の頭で導き出した結論に確からしさを置く。(あと、古い本は真偽を判別する必要がない。それはあくまで、その当時、そのようなことを語った人がいる、という一歩引いた目で見れるから、信じる信じないではなく、あくまでひとりの古い賢者の意見として聞くことができる。それがすごく楽なんだ)


 古典的な哲学書を読みなれている人なら誰もが分かってくれることだと思うけれど、哲学書っていうのは、古いものを先にしっかり読み込んでおくと、比較的新しいものが一気に読みやすくなる。特にプラトンとアリストテレスを読み込んでおくと、ローマ時代の有名な哲学者、キケロ、セネカ、プルタルコス(プルターク)などを読むのも、ルネサンス以降のデカルトなどの時代を動かした哲学者を読むのも、楽になる。(あらゆる時代の)西洋においてプラトンとアリストテレスは学問をやっている人間ならほとんど必読書であり、ことあるごとに言及されたり引用されたりするのだ。
 「この人の言っていることは、あいつの言ったことに似ているな」と思いながら読んでいると、途中でそのことが言及されることも多い。思考の形式が近い場合、たとえ言語や時代が全く違ってても、同じことを想起するのだろう。そのような「共感」が、気持ちいい。それは昔の本を読むことの一番楽しいところかもしれない。自分がその瞬間思ったことが、ちょうどぴったりそこに書かれているということが。

 私は実のところ、それほどたくさんの本は読んでいない。開くことはあっても、ちゃんと読んでいないことが多い。
 たとえば今思いつくのだと……ベーコン、カント、ヘーゲル、バークリ、ハイデガーあたりは、読まなきゃ読まなきゃと思いつつ、実際に図書館で借りてきたりもするのだが、いつも半分も読み終えないうちに投げ出して返してしまう。(今、すぐに思いついたのがこの五人だったが、こういう風な感じで全然読んでいない有名な著者はもっとたくさんいる。一冊でもちゃんと読んだ人だけ言った方が少ないと思う。それくらい私は読んでいないのだ)
 そうだね。逆に、今私が覚えてる限り、一冊でもちゃんと繰り返し何度も読んだと言えるのは、プラトン、モンテーニュ、デカルト、パスカル、ショーペンハウエル、ニーチェ、ウィドゲンシュタインくらいだと思う。あ、あとマキャベリ。
 文学ならもっとたくさんいる。哲学とは関係ないと言い切れないしね。シェイクスピア、ゲーテ、オースティン、ユゴー、カフカ、カミュ、ヘッセとか。あとワイルド。日本人だと、太宰、芥川、かなぁ。現代だと伊坂幸太郎、白石一文、村上春樹はかなり読んでたな。伊坂は特に、小学校の中学年から高学年あたりのころ、初期の作品がすごく好きで、たくさん読んでた。何度も繰り返し。白石一文は、何というか、すごくショックを受けた。村上春樹は普通に面白い。うん。普通に面白いから今でもたまに読む。

 逆に、一応一度は読み通してるけどちゃんとは読めてないのは、あげていけばキリがないような気もするけど、アリストテレス、アウグスティヌス、ルソー、ヴォルテール、ヒューム、キルケゴール、とか。なんか、細かく見ていくとキリがないから、思い浮かぶのだけね。文学だと(時代が分からん……雑に並べる)トルストイ、ドストエフスキー、ディケンズ、全然思い出せん。いろいろ読んでると思うけど、やっぱりちゃんと読んでないとそもそも名前が浮かんでこないんだなぁ……あぁルイス・キャロルとかサンテクジュペリとか、その辺もだな。
 日本の作家は特にそういうの多いと思う。夏目漱石とか、宮沢賢治とか、あんまり繰り返し読んだ覚えないし、あらすじも全然すぐに出てこないから、ちゃんと読んではいないと思う。三島とか川端とかもそう。代表作くらいしかあらすじ思い出せないし、代表作のあらすじが思い出せるのだって、なんだかんだ他の人が言及してることが多いからかもしれない。


 なんかさ、こういう話すると自分が教養ひけらかしているような気分だけど、よくよく考えてみたら著者の名前だけ出すのって、ずるいし、なんか……実際よりも自分をよく見せかけてるみたいで、かえって馬鹿に見えてくる気がする。実際、こうやってたくさん名前出してると、自分が何か不正でもしたんじゃないかと疑い始める。嘘ついてるんじゃないの、みたいな。
 はぁ。実際さ、自分の記憶なんて朧気なもんでさ……読んだって、すぐ忘れちゃうんだよ。なんか「私はこんなにたくさん立派な本を読んできたんだぞ!」って誇る気にはなれないよね。ちゃんと読めてないんだもん。どっちかっていうと「私は巷にあふれる読む価値のない本をこんなに読まずに育ったんだぞ!」ということを誇りたい。本を読むことが苦でない人間でありながら、楽な方にほとんど流されなかった、というのは褒められていいと思うんだ。経済的にはアレかもしれないけどね。出版業界的にはアレかもしれないけどね。

 疲れたぁ。

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