主人的な生き方、奴隷的な生き方について

 復讐ってのは、基本的に受動的反応なんだよね。「何かをされたから、こうしたいと思った」なんだよね。
 逆に言えば、何もなされなければ、何もしたくない、という、消極的な行動動機が根元にあるんだ。何かから命令されないと動けない、という奴隷根性がある。

 自発的な欲求、あの無邪気な子供たちによく見らえる「(虫などを)殺してみたいから殺した」「知りたいから調べた」というようなのは、その原因は外部ではなく、内部の欲求に基づいていて、それはある種の、主人的な感覚の起源でもある。
 別の言い方をすれば、自分勝手であるということが、自分の人生について主人であることの条件なのだ。何か、いつでも外部からの刺激がなければ動けないのは、常に誰かの命令を必要とするということであり、自らの足で立つことができない、ということでもある。

 一応誤解なきよう弁明しておくんだけど、私自身はさ、どっちかっていうと奴隷的な気質を持って産まれてきたんだよ。女性だし、結局誰か偉い人の意見に従いたくなるし、義務や命令を求める気持ちが強いのも知っている。自由を求めるのだって、生まれつき自由な人は、それを求める必要はなく、自由を拘束するものに対して反射して嫌悪を感じるから、多分私が感じているものとは違うものを感じて生きているんだと思う。時々羨ましいと思うんだ。自分より自由な人が。自分より自分勝手な人が。周りの人間を犠牲にしても、何とも思わず、それが当たり前だと思える人が、私は羨ましいんだよ。私はどちらかというと、誰かのために犠牲になってる時の方が、楽だから。

 あと、一応言っておくけど、主人であることがよいことであり、奴隷であることが悪いこと、というわけではないからね。世界は役割分担でできているんだ。皆が自分勝手になったら、結局争いばかりが起こって皆が自滅する。自分勝手な人は少数で、そういう人たちを補助する人が多数である方が、世界は綺麗に回っていくし、誰も損しない。自分自身に行動動機を持てない奴隷的な気質の強い人はすぐ寂しくなるし、自分に強く命令してくれる人を欲する。そういう人がいないと、無気力になってしまうのだ。誰かに尽くしている時だけ、自分らしくいられる。「やらなくてはならないこと」があるときだけ、落ち着いていられる。会社なり公共の組織なり、そういうもののために動いている時だけ、明るく楽しく生きることができる。そういう人は別に珍しくないし、それどころか、大多数で、別に弱い人たちというわけでもない。ただ、そのように生きる方が、自分らしいというだけなのだ。

 そういう人たちの醜いところをひとつあげると、自分自身の能力ではなく、自分の主人の強さで、互いの優劣を競おうとするところなんだよね。どっちの方がいい企業に勤めてるとか、どっちの方が高い役職についているとか、どっちの方が強い国の国民かとか。それは大前提に「誰かの命令に従わずには生きられない」という奴隷根性が染みついていて、奴隷は奴隷同士でしか競わないし、競えないんだよ。主人と自分の間には、大きな隔たりを感じていて、尊敬すると同時に、憎んでもいる。羨ましいんだよ。
 主人と主人は、お互いに、立場や所属について嫉妬し合うのではなく、能力や、所有物について嫉妬し合う。相手のものを奪いたいと欲するし、場合によって、相手そのものを自分に隷属させたいと欲する。基本的に主人は奴隷を欲しているが、ごくまれに、主人同士の付き合いだけを欲しがる人もいる。いずれにしろ、主人として生まれてきて、うまく、その気質にふさわしい立場や生き方ができる人は少数であり、他の人たちは落伍者として惨めにひとりで生きていく。地位を奪われた王様として生きていく。

 それは支配と被支配の関係ではなく、命令と従属の関係である。場合によっては、奴隷が主人を支配しつつ、命令を一方的に要求することだって可能であるし、いや、現代においては、その形式の方がよくみられる。奴隷が、主人よりも高い立場にあり、もっとも位の高い奴隷が、この世でもっとも多くの権力を握っている。それが悪いことだとは私は思わない。主人よりも奴隷の方が平和的であり、怠惰な私としては、その方が生きるのに都合がいいからだ。


 皆誰しも、己の内に奴隷と主人の両方を持っている。どちらを優先して育ててきたか、というのが成熟した後の生き方を決定する。「いい奴隷」としての自分を育てた方が、現代社会では生きやすいから、それが推奨されているし、私もそれは否定しない。
 いい奴隷は、一時的に主人としての役割を果たすこともできなくてはならない。自分より出来の悪い奴隷たちに命令を欲された場合、積極的にその役目を果たさなくてはならないから。皆が奴隷的な生き方を身に着けること自体は、別に悪いことではない、と私は思う。

 ほとんど主人的な要素を持たない、いつでも命令を待っているような人も、この世の中には必要だし、逆に、ほとんど奴隷的な要素を持たない、いつでも誰かに命令したがっているような人も、この世には必要だ。当然、大多数を占めるその中間に属する人間たちだって、それが必要だからそうなっているのであって、それ自体は悪いことではない。

 難しいのは、かつて私たちは「命令する=高貴、難しいこと」「従属する=身分の低いこと。簡単なこと」と考えていたけれど、今や「命令する=わがままであること」「従属すること=できて当たり前のこと。できなければ、人間として大事なものが欠けていること」と考えるようになっている、ということだ。観念が変化したのだ。世界の主役が、主人ではなく、奴隷の側に移ったのだ。いやもう、奴隷とか主人とか、そういう言い方自体が、もうナンセンスなのかもしれない。「自己中心主義者」と「仲間想いのいいやつ」という言い方をした方が、伝わるかもしれない。かつての人間社会は「自己中心主義者」が中心となって動かしていた。でも今や「仲間想いのいいやつ」が、社会を動かしており、その結果、社会はある意味ではマシになり、ある意味では気分の悪いものになった。

 私はただ眺めようと思う。私は多分、どちらでもない人間なのだ。その両方を強く持ち過ぎたのかもしれない。私はどちらの側にも立てない。命令したくないし、命令されたくもないのだ。不思議なことだが、でも私のような人間は、どのような社会にも一定数存在し、たいていはその土地に根差した神に仕えている。私たちの標語は「我人間に従わず。我人間を従えず」。積極的に人間外の存在、神や、自然に仕えようとする。場合によっては、動物に仕えることさえある。

 あぁそうだ。私は個人的に、ニーチェに含まれる「無理している感じ」が、そこから生まれてきているのだと思っている。彼はただ、誰にも従わず、誰をも従わせず生きていく方が彼の性に合っていたし、実際にほぼそのように生きていたにも関わらず、彼は人間が「主人」と「奴隷」の二種類しかないものとして取り扱い、自らを「主人」であろうと欲してしまった。彼のように「主人としての自己」と「奴隷としての自己」の両方を高度に備えた人間は、満足に人を従えることなんてできないし、満足に人に従うことだって、当然できるわけがない。彼自身の意見はその点で彼自身を誤解していたかもしれないが、彼自身の生き方は、その肉体は、彼自身を正しく理解していたから、結局彼は運命の導きもあって、誰にも従わず、誰をも従えず、生きて、死んでいった。哲学者らしく散っていった。彼自身の生き様が、彼自身の思想の正しさと誤りの両方を示したということ自体が、彼の偉大さを証明している。

 ともあれ、のんびり生きていこう。私は多分偉大じゃないし、かといって、他の人たちと同じように生きることもできないから、のんびり生きていくことにする。私は、自分勝手な馬鹿にもなれないし、仲間想いのいいやつにもなれないし、その中間すら、満足に演じられないから、のんびり、また別の阿呆として生きていくよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?