個性を破壊する教科書
教科書を読んでて思う。
これは情報としては有益だが、精神には害だ。
というのも文章自体に色がなく、中身もない。できるだけ短い言葉でわかりやすく、勘違いされないように書かれているのは分かる。だがこのような文章に触れ過ぎて、真似するようになってはいけない。
個性と感性を破壊するからだ。一面的な理解しかできなくなるからだ。
国語便覧の文章の書き方のページの乗っている例文は、とてもつもなく馬鹿げた内容だった。
書き方自体は例文なのだから正しいが、そこに書かれている持論は、まともにものを考えていない人間が書いた「高校生ってこんな感じでしょ?」的な舐め腐った意見だった。
腹が立つのは、優秀な同級生たちがこぞってそれを真似して、愚にもつかない文章が量産されていく現場だ。
まさに時間の無駄。いかに自分を優秀に見せるかということだけを考えた文章。新しい発見もなければ、才気の閃きなどあるはずもない。皆が似たような文章をやっつけで書いている。
頭が痛くなってくる。
何より私がどれだけ時間をかけて色んな表現技法を用いて伝えようとしても、そういったテンプレート的な文章と同じ評価を受けるのが、もっと腹立たしい。
そりゃそうだ。間違いのない文章で、ちゃんとまとまっていて内容が伝わるのならば、ほぼ満点。
個性的でなければちょっとだけ減点が入り、個性的すぎてもちょっとだけ減点が入る。そうして私の文章と、やっつけテンプレート文章は、同じレベルだと判定される。
まことに遺憾である! 言っても仕方がないのは分かってる。私だって時々はめんどくさくて無個性的な文章を書くこともあるし、あんまり人のことは言えない。
いずれにしろ勉強する上で、学習しすぎない方がいいこともある。あのような書き方をずっと続けていたら考えることも書くこともダメになる。与えられたひとつの面白くない正解だけしか導きだせない人間になってしまう。
常に疑え。それで成績が落ちたり、大学受験に失敗したら、おめでとう! あなたは個性を捨てずに済んだというわけだ。
文章の形式は日々多様化している。結局読まれることが正義であり、言葉の「正しさ」なんてものは後から追いかけてやってくるものに過ぎない。
古い文章は、価値があればその表現がどれほど非現代的でもちゃんと残っていくし、この時代の文章もまた同じだ。
新聞だとかネットニュースだとか、そういうほとんど無個性的で手垢のついた文章は、百年どころか一か月も経てば書いた本人でさえ読まなくなる。
くだらない文章しか書けない人間になってしまうのは、本当にもったいない。
教科書の内容はためになる。ただし、信じすぎるな。学びすぎるな。あくまで「この時代のやつらはこれが正しいと思っているんだな」という冷めた態度で接するべし。
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