人を傷つけることについて

 私はコンプレックスというものにあまり敏感じゃない。とはいえ私自身、小学生の時は男子と関わることが多かった分、色んな悪口を面と向かって聞かされる機会は多かったし、陰口を言われることも結構あったと思う。
(まさに余計なお世話なのだが、いちいち「××君が、○○ちゃんのことをうんたらかんたらって悪口言ってたよ」と毎度伝えに来るタイプの子とも友達をやってたから、自分が人からどう思われているかを知る機会はとても多かった)
(私自身、容姿の気になる部分はまぁまぁあるが、ずっと直視していたら慣れるし、それは他者にとってもそうだ。何か欠点があっても「そういう自分」として受け入れれば、どうでもよくなる。どうでもよくなれば、それでからかわれても、冷静に言い返せるようになる。そして人は、毎度冷静に言い返されると自分の愚かさを自覚するようで、そのうち何も言わなくなる)

 ともあれ、人の悪口というのは、聞き流せば聞き流すほど、自分の自信に変わっていくものなのだ。
 「お前の悪口程度では何とも思わんよ」という態度は、大人の場合はどうか知らないが、子供社会において、決定的な上下関係を生む。特に暴力よって力関係がはっきりしない女子の場合は、それが顕著だ。私は(誰もがそうだと思うけれど)人から尊重されるのが好きだったから、自分が注目を浴びたり、優れていると人に思わせることのできるチャンスには結構敏感だった。そして、そのために全力を尽くすことも、得意だった。
 誰かに媚びたり、言葉や策略で誰かの上に立つことよりも、自分という人間の人間性によって誰かより優位に立つのが好きだった。相手が人間としての低劣さを見せれば見せるほど、それは私にとってのチャンスに変わった。
 今思えば歪んだ子供にも思えるが、しかし合理的に考えれば、それは何も悪いことではない。優しく強く、動じない子になろうとすることは、決して悪いことじゃないから。同級生から見て気に入らなくても、大人たちからは気に入られるタイプの子供だったのだ。

 私はそういうタイプの人間だったから、いちいち人に悪く言われたくらいで泣き出したり、怒って仲間を呼んで糾弾するような他の子たちのことを見下していたし、今でも馬鹿なことだと思っている。結局自分の低劣な復讐心を満たしたいだけじゃないか。
 「かわいそう」だと、一緒になって憤る子たちの気持ちもよく分からなかったし、私は同情されようとしている子たちに対していつも冷笑的だった。
 たとえば背の低い子がチビと言われてからからかわれているのをみて、私はそれを「見苦しい」と思うことはあっても「かわいそう」だとは思ったことはなかった。
 人生、いやなことがあるのは当たり前だし、ひどいことを言われるのは当たり前。それくらいのことで理不尽を感じて怒りだしたり倫理を説いたりすることは、私にはどうにも器の狭さしか感じられない。「確かに」とは思えない。
 それはない方がいいことではあるが、なくそうとしたってそれが具体的な方法でなく、ただの禁止であれば、別の方向に向けられるだけだと幼いながらも私は理解していた。
 「いじめ」が悪いことだと言われるなら「いじめ」にならないように人をからかったり傷つけたりする方法を考えるのが、人間なのだ。たとえば、ルール違反をした人をひどく罵ったりとか。現代日本でよくみられる光景だ。下品極まりない。
 

 「誰も傷つけてはいけない」という人や「コンプレックスをいじってはいけない」という人を見るたびに「きれいごとだな」と私は思ってしまう。
 言われても言われてなくても、現実は変わらないし、言われて傷つくのは、現実から目を逸らしているからだろう、と私は思ってしまう。
 私は中学一年生の時、勉強のできない(といっても、平均よりはよかったが)友達が「なんで私は勉強できないんだろう」と愚痴を言っているとき、私自身いらだっていたのもあって「頭が悪いからじゃない?」とまっすぐに言ってしまったことがある。その子は泣きだして、私は学校の先生にひどく叱られた。
 私が反省したのは、その子を傷つけてしまったことにではなく、その子を泣かせたことによって自分が周りから悪く思われたことだった。どれだけきれいごとで繕ったところで、私が当時そのように感じていた事実は変わらない。
 今思えば無意味に傷つけただけだったし、私のその発言はただ不注意で、非合理的だったから、反省してしかるべきだったが……でももし私が同じことを言われたら、悔しく思って次のテストでいい点数を取ろうとするし、それでその子よりいい点数を取れば、見返してやることもできる。私ならそれをチャンスに変えることができる。落ち込む場合でも、落ち込んでいるのは、自分の頭が悪いことに原因であるのであって、その子の不注意の発言に原因があるわけじゃない、と私なら考える。
 だからこそ、私は当時も今も「ひどいことをした」という感覚がない。あったのは「馬鹿なことをした」「無意味なことをして、無意味に自分が損を被った」という感覚だ。私は人の生き死にや、必死の中で生きている人間の苦しみや悲しみにはとても敏感で、よく共感するが、ただ毎日を適当に生きている人間の不満や怒りには一切共感しない。だから、ニュースは基本大嫌いだし、殺人犯やテロリストに対する憎しみも恐怖もない。差別主義者に対しても、いじめっ子に対しても、私は何とも思わない。そばにいたら気持ち悪いと思うし、できるなら滅ぼしたいと思うかもしれないが、そうじゃないならどうでもいい。私には関係のないことだ。同時に、いじめられっ子にも興味がないし、差別を受けている人たちにも興味がない。特に、自分が差別を受けてることを主張して、何か別の権利を主張する人に対して、私はとても冷たい。支持もしないし反対もしない。好意も反感も持たない。ただひたすらに興味がないのだ。

 私は最近、失った自分のことを思い出してきて、それを取り戻しつつある。私は、いわゆる「強者の理屈」をなんにでも当てはめるタイプの人間だった。弱者に対して関心を寄せない人間だった。特に、自分の権利を主張するタイプの弱者を、まったく無視するタイプの人間だった。現在もそういう人間であると言った方が正しいかもしれないし、そのような人間に戻ったと言うのも正しいかもしれない。

 私は昔から、人間は平等じゃないし、平等であるべきだとも思っていなかった。権利は、その人間の能力に左右されるべきものであり、平等というのを肯定するならばあくまでそれは「機会」と「環境」にのみ適用される概念であると、私はそう感じていた。

 人間は、簡単なことで傷つく。人はできる限り傷つきたくないと思う。それは当たり前だ。
 だがそこから「万人は何人とも人を傷つけるようなことを言ってはならない」と推論するのは、明らかに「弱さの肯定」であって「精神の成熟を拒んでいる」ということである。

 だから私たちは、こう言うべきなのである。
 「人を傷つけるのは悪いことである」ではなく「他者を自分の欲望や気分に任せて意味もなく傷つけるのは、下品なことである」と。
 あらゆる善悪は他者への押し付けであり、それが強い感情を伴っていればいるほどに、弱さのあらわれである。その攻撃に耐えることのできないその人自身の精神の弱さ、不安定さを示しているのである。
 
 私たちは強い。人から悪く言われたくらいでは「ふふん」と聞き流すくらいでちょうどいいし、その方が自分らしいと感じる。相手が怒った分だけこちらも怒るのは、自分と相手を同じ立場に置くことに他ならない。
 人間は平等じゃないし、平等であるべきじゃない。人間はより豊かに、美しくなっていくべきであり、怒りをまき散らすことは極めて醜いことだ。
 品のいい人間でいよう。人の悪口なんていう、つまらなくてくだらないことを言うのはもちろんのこと、聞くこともできるだけ避けるようにしよう。


 と、言いつつ! 私は結構不安定な人間で、美しくないことをずいぶんこのnoteの中で言ってしまっているし、もっといえば自分の弱さや醜さを受け入れてもらいたいとも思っている。
 私の中には強さもあるし、弱さもある。両方とも受け入れていたい。できればそれを、他人にも許していたい。

 私は昔の自分を思い出して、その自分をここらで回収しておこうと思っているが、だからといって最近の自分を忘れて、捨ててしまってはまたぐるぐる同じところに戻ってきてしまうのがオチだ。

 だから私は、自分の中の矛盾を受け入れることにする。「強さの論理」を振りかざして他者を拒む自分を、自分に許そうと思う。それと同時に、自分の弱さを受け入れて、他人の弱さも受け入れられる柔軟な自分も、強くない自分として、自分に許したいと思う。

 私はこの先、意図せず色んな人を傷つけてしまうと思う。それでいいのだと思っている。その分だけちゃんと、私も傷つくから。私はもう同情しない。されたことに、怒ったりしない。そういう強い自分を、取り戻す。失った自分を、取り戻す。
 同時に私は、誰かを傷つけないように慎重に動くこともあると思う。それでいいのだと思っている。その分だけちゃんと、私の気持ちも大切にしてほしいから。私はもう同情を拒んだりしない。怒っている人を、見下して壁を作ったりしない。そういう弱さが自分にもあることを、自分に対して許したいと思う。


 私はあまり性格がよくない。性格がいい自分を演じるのは得意だったけれど、結局私は自分本位だし、他人を傷つけてもなんとも思わないタイプの人間なのだ。それでいいのだ。私はそんな自分が好きだし、だからこそ、他人に多くを求めず、許すことのできる寛容な人間でもあったのだ。私は人に傷つけられても、それで相手を憎んだりしない。自分の弱さも、相手の弱さも憎まない。

 善も悪も、うちに含んだ自分でいよう。それが一番健康的で、呵責のない自分だ。周りの人間から、もっとも好まれる自分だ。一番笑顔でいられる自分だ。
 私は、誰しも悪い部分があっていいと思う。あるべきだと思う。直すべきじゃないと思う。人を不快にさせたり、困らせたりしてしまってもいいと思う。その中で、少しでも美しく生きることを目標にしているなら、自然と人は見苦しいことをしなくなっていく生き物だと思う。

 私は人間に対して楽観的でいようと思う。少なくとも、今の私はそうであるべきだと思ってる。

 私は人間のいい部分も悪い部分も、全部愛しているのだ。

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