散歩道の出会い

 少しぼぉっとした気分で、灰色の空の下を歩いていた。時刻は大体五時頃。もう七月だから、夕方と呼ぶにはまだ明るい。
 私がかつて飛び降りた橋の下を、いつものように歩いていた。その事実は今書いていて「そういえば」と思い出したわけだが、当時は別にそんなことは少しも頭に浮かびはしなかった。
 そこで、ひとりの女子中学生とすれ違った。制服を着ている。スマートフォンをいじりながら、ときどきにやっと笑う。
 次に、坊主頭の眼鏡をかけた青年とすれ違った。同時に、何かはっとしたような表情を彼が浮かべたから、どうしたのだろう、と後ろを振り返った。私が通り過ぎたところにはなかったはずの、白いカップが落ちていた。さっきの中学生が投げ捨てたのか、それともただカバンから落ちてしまっただけなのか。おそらく落ちてしまっただけだろう。このような目立つ場所に、いきなり投げ捨てるというのは考えづらいから。
 私は立ち止まってじっとそのカップと、青年を背中を眺めた。青年は、そのカップを気にしながらも、通り過ぎようとした。仕方ないから私が拾おうかと思ったが、それをしたらその青年はきっと恥ずかしい気持ちになるだろうと思い、次の曲がり角まで歩いて、そこで立ち止まった。一分ほど待てば、彼はどこかに行ってしまうことだろう。それまで、待てばいい。
 三十秒ほど経ったのち、ちらっと様子を覗き見た。青年の姿はなかった。よし、と思い拾いにいこうとすると、向こうの曲がり角からさっきの青年が出てきた。「あっ」と私は思った。彼もきっと、同じことを考えていたのだろう、と察した。結局彼の出てきた曲がり角の方がゴミの場所より近かったから、彼がそれを手に取って、恥ずかしそうに背を向けて歩き出した。私は、ぎゅっと手を握りしめて、小走りに彼に追いつき、横に並んで、見上げた。
「どうして、そんなめんどくさいことしたんですか?」
「見てたの?」
「はい」
「うーん……何というか、放っておけないし、でも拾ったところを、さっきのあの子が振り返って見つけたら、きっと恥ずかしく思うだろうなって思って」
「私は、自分が拾ったらお兄さんが恥ずかしく思うだろうなって思ったので、待ってたんですが」
「あ、なるほど。確かにそれは、恥ずかしかったかもしれない」
「めんどくさい世の中ですね」
「どちらかというと、僕らの性格がめんどくさいんじゃない?」
「ですね」
 会話が止まり、また顔を眺めると、少しめんどくさそうな顔をしていた。これは私から離れていった方がいいだろうと判断した。
「それじゃ、失礼します」
「うん。それじゃあ」
「あ、もしよければそれ、私が持って帰りましょうか?」
 青年は少し迷ったのち、私の顔をちらっと見て「それじゃ、お言葉に甘えようかな」と言って、ゴミを差し出した。
 私は微笑んで「またどこかで」と、さっとゴミを受け取り、背を向けて、歩き出した。振り返らないぞ、と決めた。なんだかそれは、女々しすぎる感じがしたからだ。彼が、同じように背を向けてくれたか、確かめたかったのは事実だけれど、気にしないぞと決めた。
 しばらく歩いて、その白いカップを改めて眺める。ブタメン。私はつい笑ってしまう。今の出会いは、中々奇妙だったし、面白かった。小説のようだった、と言ってもいい。でもこのブタメンは、まさに現実だ。その現実の統一感のなさに、笑ってしまう。現実はやっぱり締まらないなぁなどと思いながら、これを私が食べたと思われるのはちょっと恥ずかしいなと思った。そう思うと、都合よく道端にボコボコになった黄色いエナジードリンクの缶が転がっていて、迷わず拾った。これなら、ただゴミを拾っただけだと分かる。都合がいいなぁと思いながら、また歩き出した。

 あの青年は、いい人だと思った。きっと生きづらいだろうなと思った。そう思うと、少しだけ嬉しかった。あぁいう人がご近所に住んでいて、ちゃんと生きているんだと思うと、現実もやっぱり捨てたものじゃないなぁと思う。
 同類と呼ぶのはきっと失礼なんだろうけども、でもこういう風な感じ方をするのが私だけじゃないというのを、言葉ではなく、経験として実感できたのは、本当に嬉しかった。
 私だけじゃない。
「きっと恥ずかしく思うだろうなって」
 その想像力の豊かさと、暖かな気遣いが、この世界にちゃんと存在するんだと思うだけで、生きていくことができるような気がした。明日はその気遣いが、また別の誰かに向けられるのだと思うと、嬉しかった。と同時に、そういう気遣いはきっと重すぎて、分からない人間には分からないままでいた方がいいのだと思うと、嬉しかった。
 そういう気遣いの悲しさを、誰にも気づかれない方がいいのだということを分かっている優しさを、理解できるという特権を、特権を、共有できたことが嬉しかった。

 またあの人と話す機会があればいいな、と思った。でも、また出会ったら、その時はきっと失望してしまうと思う。
 いや、そう決めつけるのはよくないのかもしれない。今は、何も考えないようにしよう。わざわざ自分から、素敵な出会いを先んじて穢す必要もない。

 ただ、この嬉しさは、ちゃんとここに刻んでおこう。今日はいいことがひとつ確かにあった。それだけで十分だ。

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