文学とは何か気づいてしまった

 文学とは「個人的経験を一般的なものに作り替えること」なのだ。

 ここでいう「個人的経験」というのは何も、作者自身の主観的経験である必要はない。それが個人の経験、感情、信念であれば、誰のものでもいい。文学というのは、本来それを経験した人間にしか分からないものを、それを経験したことのない人間まで届ける、という試みなのだ。

 逆に言えば、その中に伝わるものや届くものがないのならば、それは娯楽小説であって、文学ではない。文学は常に、明確に、「届く」「届きうる」ものがないといけない。

 万人に届く必要はない。そもそも万人に届くものというのは存在しない。いつだって文学の受け取り手は少数である。だがそれは、選ばれた才能のある少数ではなく、受け取ることを必要とする、問題を抱えた少数である。

 人類の歴史は、問と、それに対する「足掻き」である。私たちは「解」を出そうとしているわけじゃない。「解」が出たところで、その通りに動くことはできないからだ。私たちの体も心も、どうしようもなくこの現実世界に存在しているから、私たちができるのは、その中で起こった「出来事」を簡略化することによって「問化」し、それに対して何らかのアクションを起こすことによって「足掻く」ことだ。

 そしてその「足掻き」に密接にかかわるのが、文学だ。
 どうしようもない、他にできることのない、ただ伝えることしか、今の自分にはできない。ただ受け取ることしか、今の自分にはできない。文学は、そのような人間たちによって継承されてきた、「足掻き」の結晶なのだ。

 私は気づいてしまった。私はずっと、文学をやっていたのだ。そして私はどうしようもなく、文学者なのだ。結局私にできることは、ただ「足掻く」ことだけなのだ。それが、どんな結果を及ぼすかは分からない。だが、託したい。託すことしかできない。だから、託すために、伝えるのだ。広げるのだ。

 結局のところ、私には何の力もない。現実を変えることができるほど、私の体も心も強くない。私にはどうしようもなくあらゆる能力が欠如していて、現実生活を思い通りに動かすことができない。だから、私は書くことによって、自分と、この世界のことで、「足掻く」しかないのだ。

 足掻くことを肯定しよう。私たちは私たちの人生を足掻くしかないのだ。

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