生きることは善いことであるか

 人間は生きている限り、どのような形であっても自らの生を是とするしかない。言い換えれば、生きているのに自分の生を是とすることができなくなれば、私たちはどのような能動的な行動も是とすることができなくなるので、それはもはや屍が息をしている、としか言えない状況ということである。

 ではそこから考えて、私たち人間にとって、他の生きている人間を生かすことは善であろうか。他の生きている人間を、殺すことは?

 厄介なことに、この問題は先ほどの問題のように簡単に考えることはできない。

 私たちの生存に役立つ存在。これを守ることは、おそらく私たちにとって「善」と呼ぶことができる。それは恩返しと呼ばれることもあるし、どのような国や地域においても、このような善は共通して存在しているように思う。
 自分を助けてくれた人間を利用し尽くして殺すようなことを善とするような善悪を、私は聞いたことがないし、そのような善を私たちは持つことがないから、それについては考える必要がないと思う。

 厄介なのは、私たちの生存を害する存在。これを守ることは、基本的に「善」とされることはないということだ。犯罪者を愛したり、守ったり、協力したりすることは、あらゆる社会において「悪」とされている。
 これは単純に「私たちは生きていなくてはならない。私たちが生きることを否定する存在を、私たちは否定するしかない」という道理に基づいており、私たちが悪というものを憎み、彼らを害しようと企てるもっともありふれた理由である。

 例外的に「敵に塩を送る」ということがひとつの名誉とされることがある。これはひとつの見方では、敵が存在していても自分たちの存在が脅かされてないということを理解している、という強い理性のあらわれであり、また別の見方によっては、その敵対関係は単なる一時的、社会的なもので、お互い人間として、もっとも守るべきもの、つまり生存が脅かされる場合は、助け合うべきだという考えに基づいている。

 いずれにしろ「敵を殺すこと」が善とされるのは、悪を罰しているから善とされているのではなく、自らの近しいものを守ることに繋がるから、善とされているのだ。
 逆に言うのならば、人を殺すことでさえ、それが誰かを守るためであるならば、たいていそれは正当化されるし、善と呼ばれることさえ珍しくない。
 「人を殺してはいけない」は善ではない。ただ「自分のためだけに人を殺すことは許されない」という命令は、どうやらどの国の法律にもあるようなので、これを基本的な戒律とみることはできそうだ。

 自分が誰かの生存を脅かしている場合、その人間にとって自分は危険な存在であり、その人が自分を殺すことは「善」であると言うことができる。同時にそれから自分の身を守ることも、最初の基本的な命題に該当するため「善」であると言うことができる。同じ種の善悪を信じているのに、この場合だと人は殺しあうしかなくなるのである。
 
 誰も傷つけないことを是とする人間には二種類いる。この道理を理解して、生存にもっとも有利なのは敵を作らないことである、ということを知っている人間と、本能的に自分が他から身を守る能力を持っていないことを知っているので、報復を恐れて人を傷つけないようにしている人間。

 基本的に前者はあらゆる攻撃を前もって予測し避けることができるので、理不尽な目に遭うことも少ない。反面、後者は己にとっても他の人間にとっても弱いことが明確に知られてしまうので、反抗できないのをいいことに利用し尽くされることが多い。そしてこの、利用し尽くされるタイプの人間を、私たちは「善人」と呼んで、守ろうとする。
 しかし冷静に考えてみると、この種類の「善人」は、人間としての強さの欠如によってそうなっているのだから、決して優れた人間ではないし、見ていて気分のいい人間ではない。

 私はあらゆる他者に対して、このような「善人」であることを、どうにも許せない。人はその人自身のために自分自身の身を守れるようにならなくてはならないし、そうでなくては、他の人を守ることもできない。
 人を殺せる人間でなくては、人を殺すような人間から自分と他の身を守ることができない。当然のことながら、自分にとって利してくれている人が誰かから襲われている時に、助ける能力があるにもかかわらず見殺しにするということは、私たちは本能的に「善いこと」だとは思えないようにできている。
 自分の能力を冷静に見つめて、不可能だと判断し逃げることは、決して悪いことではないが、冷静さを失い、恐怖に囚われ、できることをできないと判断し逃げることは、私たちにとって、もっとも大きな恥のひとつとされる。これは男も女も関係ない。ただ違うのは、歴史的に、男は女と子供を大切に扱い、女は子供を大切に扱うことが是とされていた、という点だ。女子供を守ることができず、恐怖に囚われて逃げ出した男は恥知らずと言われるし、子供を捨てて逃げて行った女もまた、恥知らずと言われてきた。

 私たちは「善人」が時に「恥知らず」であることを知っている。他者を守る能力がないので、私たちにとって好ましいといえる存在でないのだ。(補足だが、善人全てがそういう存在である、というわけではない。ただ善人とされる人間のうちの何割かは、このようなタイプの人間であると述べているのである)

 よくフィクションで見かけるシーンだが、「善人」とされる人間が、脅されることによって「悪人」に利用されるという場合がある。この場合における「善人」とは、私たちにとって好ましい存在、つまり一方的に私たちを害しそうになく、むしろ私たちに利してくれるはずの存在を意味する。こういう人間を、悪人が利用しようとする場面。
 この場合私たちの同情心は「彼は悪くない」と思おうとする。「悪いのは悪人であり、こいつさえ始末すれば、彼の行動は全て許される。なぜなら今後、彼が私たちを害するようなことはないはずだからだ」と。
 だが冷静に考えてみよう。人のことを不当に利用する人間、つまり私たちを害することによって、自らの生存を有利にしようとする人間がこの世に存在する限り、他者を守ろうとする人間もまた、彼らの狡猾な企てに巻き込まれた時点で、私たちの生存を害する結果となる。
 このような現実があってなお、私たちは彼らを許すことができるのだろうか。

 この問題は一見非現実的な思考実験のようにみえるが、実際にはそんなことはない。私たちは時に、人を害することを何とも思わない人間、つまり悪人や、悪人と近しい人間と関わらなくてはいけないことがあるし、そういう人間とも協力関係を結ぶことを迫られることがある。現実社会が、そういう風にできているのである。
 彼がやろうとしていることにもし私たちが加担してしまっている場合、そこにどんな理由があったとしても、私たちは、害された人からすれば、悪の一部である。攻撃対象である、と言える。もし私たちが、その害された人を抑圧するのならば、私たちは一生悪の一部として生きなくてはならないし、誰かから攻撃されるかもしれないという不安におびえて生きなくてはならない。

 私たちは、悪からの逃避は恥だとは思わないようにできている。不思議なことに、たとえ大切にすべき人を捨てる結果になったとしても、悪とされる行動をできるのにもかかわらずそれをしなかった人間は、決して蔑まれるべき人間ではない、とされる。
 家族を養うためにものを盗んだ人間は恥知らずであり、同情されつつも、蔑まれるべき人間であるが、ものを盗みたくないがゆえに家族を死なせた人間は、恥知らずではないし、蔑まれるべき人間でもない、とされるのが自然である。

 私たちはこのような不思議な感覚の理由を、明確に知ってはいない。「自分と他者の関係」は、ただほんの少し視点を動かすだけで「他者と自分の関係」になる。自分の行動は全て、私たちにとっての他者、つまり「他の自己」にとっては「他者の行動」であり、また逆も然りなのだから、私たちの「何をもって善とするか」というものは、あまりにも複雑で、そう簡単に答えを出していいものではないのだ。

 こういう問題をこそ、本来であれば多くの人が話し合って互いに納得して共通の認識を持つべきだと思うのに、この時代の人たちは、自分たちが善悪とは何か知っているかのように思い込んでいる。あるいは「あるべき善悪などないのだ」と浅すぎる場所で立ち止まり、善悪を探そうとする人間を嘲笑しようとする。
 私たちはあるべき善悪を持っていないから、それを決めようとしているのに、作ろうとしているのに、彼らはそのような私の建設的な取り組みを嘲笑い、どうでもいいことだと一蹴しようとする。
 「そんなのは何の役にも立たない」と無視しようとする。

 違うだろう。それ自体が、生きる上でもっとも大切なことなのではないのか? 

 善悪の問題とは、他者との関係のあるべき姿にまつわる問題だ。自分が自分をどう認識し、自分が他者をどう認識するか、という問題だ。

 昔抱いていた強い感情が蘇ってくるな。私は、彼らの悪には腹を立てなかったけれど、彼らの無関心には強く腹を立てたのだ。彼らが、彼ら自身に対しても、他の人間に対しても、私という人間に対しても、強い関心を抱いていなかったという事実が、彼らが、彼ら自身の欲望や幸福にしか興味がなく、その場所から動こうとしていないことに、強い苛立ちを感じたのを覚えている。

 関心を持つべきことに無関心であること。私はものごころついたときから、これを悪と定義していたような気がする。
 私が他者との間に無意識的に壁を作る理由は、私にとってはどんな人間も「悪に加担しうる人間」であるように見えるからかもしれない。
 それが不当であるかどうか、私にはまだ分からない。

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