嫌な思い出は抽象化してしまえ

 今ふと思い出したのだが、私は小学生のころ「二次創作の二次創作」をやっていた。それも、混合物の二次創作の。それは純粋に、何というか、質のいいものだったし、面白いものだった。いろいろと好きなものが重なったものだったのだ。だから、それをもとに、色んな所から色んなものを借りてきて、自分なりにひとつの「もの」を作ってみた。作品と言えるほど形は整っていなかったし、オリジナリティはほんの少しもなかった。二次創作自体には、作者の趣味や技能は多分に含まれているから、そこには必ずオリジナリティがあるのだが、二次創作の二次創作(三次創作、っていうのかな?)は……少なくとも私の場合は、そこにオリジナリティは何もなかった。やり方も、題材も、全部パクってきたものの寄せ集めだった。

 もちろんすぐ飽きたので、大した罪にもならず闇に葬られた。友達も興味がなかったようで、ろくに反応しなかったし、誰も覚えていないと思う。小学生の二年か三年ごろの話だし、黒歴史というほどのものではないと思う。幼さゆえの愚行は別に……

 まぁでも、恥ずかしいものは恥ずかしいな。とても恥ずかしい。今は別に二次創作に対して何の気持ちもないし、アイドル文化を見る時と同じような目で見るけれど……でもやっぱり、自分が捨てた自分のことを思うと、胸に明確な痛みが走る。

 今の私もいつか、大人になった私にとって恥ずかしい存在になるのだろうか。目を背けたり、抽象化してごまかすことしかできない存在になるのだろうか。(今私がやったことは「抽象化」である。具体的なことを語らず、意識しないことによって、個人的な痛みや恥ずかしさをごまかしている。一般化することによって、それが「誰にでもありそうなこと」にしているのだ。そうすれば、痛みは多少軽減されるから)

 大事な想い出や綺麗な想い出はあまり抽象化したくないけれど、嫌な思い出はできる限り早く抽象化したいし、するようにしている。抽象化は「語ること」によって行うことが簡単だ。つまり、それを、単純に、分かりやすく説明してしまうということなのだ。そして、それ以上のものではないということにしてしまうのだ。

 逆に言えば、具体的に表現した自分の過去や思い出は、どうしようもなくずっと胸に傷を残し続ける。それだけ自分の中の多くの部分を占めるからだ。抽象化は、ある意味縮小化でもあるのだ。具体化は、ある意味拡大化でもあるのだ。

 いつか私がnoteをやめて、その思い出を消してしまいたくなったら、それまで書いた内容を全て無視し「私は昔、長文を書ける系のSNSやってて、痛い文章まき散らしてたんだよね。ほんと思い出すだけで恥ずかしくなるわ!」と抽象化して語ることだろう。(もちろん、そうするつもりはないけれど、そうなる可能性はゼロとは言い切れない。私には自分がやっていることに自信を持てない)


 なんだか、気分悪いな。正体不明の気分の悪さを感じる。何か自分が、大事なことを自分の弱さゆえに捨ててしまったのではないかと不安になる。抽象化する過程で、忘れてはいけない具体的な事実を忘れてしまったのではないか、と。

 でもそれは私の意識というよりも、人間の機能の問題だから、私の意思でどうにかできる問題ではないはずなのだけれど……

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