自分が生まれる前に死んだ人の本を読むこと

 私たちの手元にある歴史の教科書は、ほぼすべて、現代人の手によって書かれている。それは言い換えれば、現代人の偏見によって書かれていると言っても間違いはない。
 「それは全て間違っているから、信用すべきでない」などと私は言うつもりはない。だが、それを他の国、他の時代の人々のそれよりも正しいものとして見るのには反対だ。
 サウジアラビアの歴史の教科書を見てみよう。それと日本の教科書との相違点を見てみよう。
 戦前の日本の教科書を見てみよう。それと今の日本の教科書との違いを明らかにしよう。
 二百年前のドイツの教科書を見てみよう。二千年前のローマの教科書を見てみよう。

 それぞれの時代でそれぞれが何を信じようとしていたか、ということが分かる。私たちは何を信じるか選ぶことができるが、それは同時に、私たちが見たくないものを消し去ることができる、という能力をも明らかにする。誰かが抵抗しなかったのならば、消え去ってしまったような「歴史観」はいくらでもあるし、実際に消えていったものも数えきれないほどあると思う。
 私たちは私たち自身の歴史観を守る必要を持たない。それはあまりにも強大で、今はむしろ、それが他の歴史観を押しつぶさないように気を配る方が重要なことだ。
 私たちは私たち自身の歴史観と相容れない歴史観をこそ、守り、そのままの形で次の世代に繋いでいく義務を持つ。そうすることが、いずれ消えるしかないこの時代の歴史観をそのままの形で残していくことに繋がる。

 私たちが生きていたという事実や価値が完全に消え去らないためには、私たちが死んだあとに生きる人々が、私たちが生きていたということを尊重してくれなければならない。彼らが、私たちの作り出した時代遅れのものを、愛し、守るようになってくれなければならない。
 だから私たちも、私たちが生まれる前に死んだ人たちのことを、できるかぎり理解しようと欲し、それらを保存しようと努力しなくてはならない。彼らを尊重し、自分たちにはなかった彼らの善い部分も悪い部分も、できるだけそのままの形で後世に伝えなくてはならない。
 彼らの生き様を決して忘れてはならないし、それを消し去ろうなんていうのは言語道断だ。やってはならないことだ。それをできるだけの力を、人間は常に持っているからこそ、それは決してやってはならないことなのだ。
 消え去るべき歴史などない。自分たちにとって都合の悪い歴史ほど、私たちは尊重しなくてはならない。そういう立場を取らない国家は、全て信用に値しない。自分にとっての不利となる事実に触れないようにして、チャンスがあればすぐにでも消し去ろうとする国家は、全て信用に値しないし、この時代、ほぼすべての国家がそうであるから、当然、私たちは国というものそのものを常に信用すべきでない。
 国家の構成員であるという事実が私たちを、国家が起こした不誠実な行動への加担者にしてしまう。私たちは、国籍を持って生まれた時点で、重い十字架を背負わされている。私たちは私たちが信用していないものにぶら下がって生きているし、そのように生きることを強制されて育ってきた。

 国家にも、たくさんの人の思いが込められている。国家は民族や歴史の全てではないが、歴史の一部であることは確かだ。この国家もいずれ消えていくのだから、それは他の国家同様に尊重されるべきであるし、この国家のために行動していった人々のことも、私たちは忘れてはならない。
 それは当然、私たちの日本という国だけでなく、世界中にあるすべての国家についても言えることだ。それが善いものでなければないほど、そういうものがあったということを忘れてはならないのだ。消し去ってはならないのだ。

 永遠に残っていくはずのものが、永遠に消え去ってしまう。人間の命は有限で、どれだけ努力をしても二百年生きることはできない。だが本や記憶は、何千年の時を超えて、そのままの形でその時代に届けられる。
 私たちは、私たちが生まれる前に死んだ人の本を読んだ時、彼らが確かに生きていたことを確かめられる。
 それは「生きていたという証拠としての化石」ではなく、今も絶えず動いている「精神の心臓」なのだ。

 それを書いた人間の心臓が止まっても、その本の心臓は動き続ける。古典というものは、いつでも私たち生きている人間にとって「古い作品」ではないのだ。「はるかに昔に成立した、今ここで息をしている作品」なのだ。

 教科書や説明文は、生まれた時から死んでいる文章だ。そこからは人間の感情や想いではなく、功利的な都合だけがあるから、役に立たなくなった教科書や説明文は綺麗さっぱりなくなっていく。資料としての価値しかなくなる。それはまさに「化石」でしかない。

 私たちは私たちの役に立たないものであったとしても、それが生きているならば、守ろうとする義務がある。私たちの役には立たなくとも、私たちの子孫が役立てられるかもしれない。私たちが気づかないうちに、それが私たちの心臓の中に入り込んで、役に立っているのかもしれない。
 私たちは、内容の理解よりも先に、生を理解する。私たちは、その文章に書いている内容よりも先に、その文章を書くということがどれだけ大変な作業で、想像しがたいほどの強い思い、信念の結果としてそこにあること、それを先に理解する。

 その人が何を言っているのか分からなくても、私たちのために書かれたということは分かる言葉、というのがある。自分が死んだ後も読まれ、その読んだ人が少しでもそこから何かを得られるように、と書かれた作品がある。

 私たちにとって骨は無意味である。その作品を書いた人間が、その人生の中でいくら得をしたかとか、いくら損をしたかとか、そんなことはもはやどうでもいいこととして認識する。その人間と私たちの間には、本来何の関係もなかった。
 でもその本が、生きている本が、私たちの精神へと繋がるかけ橋となる。その人間が何に苦しみ、何に喜び、何を愛したか、私たちは想像することができる。

 私たちの精神が深くなるためには、必ず過去に遡ることを必要とする。どれだけ賢い人々であっても、現代人は現代人であり、現代人の作品しか読まない人間は、現代という表象の世界しか知らないまま生きていくしかない。自分たちが生きている時代を蔑ろにしていいとは私だって思わない。しかし、その時代しか知らないということは、自分の生きている時代を知らないということと同じくらいに、愚かなことであり、残念なことだ。
 たとえそれが自分自身の利益に繋がるとしても、自分の人生が浅いままで終わってしまうことに、私たち繊細な人間は耐えられないのではないか? 
 「私は私のためだけにいる」という原始的な結論は、私たちにとって、あまりにも不愉快なのではないか?

 伝えるべきことがあるのならば、当然、受け取るべきこともあるのだ。百年後に伝えるべき思いがあるならば、百年前から受け取るべき思いもあるのだ。

 私たちが死んだ百年後も世界はあるということの証拠は、私たちが産まれる百年前に死んだ人がいる、ということだけで十分だ。それも信じられないなら、百年前よりも古い本を真剣に読み、その心臓の鼓動を感じればいい。彼が生きていたことを信じられないことなどありえない。彼の作品が、現代人が捏造したものであると思い込むことなど、私たちにできるはずもない。そんな精神への冒涜は、私たち自身の精神が、どうしても許すことができない。私たちの書いたものが、百年後のある人間が「それは私たちの同時代人が私たちのために捏造したものだ」と考えることを、私たちは許すことができない。それは、確かに私たちが書いたものなのだ。私たちが生きた証拠なのだ。
 そのような思いが、百年前にも、千年前にもあったのだ。ひょっとすると、もう消えてしまっているだけで、一万年前にもそのように思い、何かを残そうとした人がいたかもしれない。
 あぁ、何年前だって構わない。重要なのは、私たちが生まれる前にも世界はあり、その世界は私たちが今生きている世界と同等のリアリティ、現実性、現代性があったということなのだ。その世界にはその世界の常識や現実があり、それは私たちの時代とは異なっているけれど、それを決して誤っているものとして消し去ろうとしてはいけない、ということだ。

 人の精神の歴史は美しいのだ。教科書に書いてある歴史が美しくなくとも、その時代が美しくなくとも、その時代を必死に生きた人がいて、その必死に生きた人の残した作品は、美しく、今もまだ生きている。

 この時代もまた、他の時代と同じで、醜い時代だ。人々も醜い。百年後の小さな人々は、私たちの時代をほんの何ページかで学び終えてしまうことだろう。それほどまでに、中身のない時代なのだ。
 百年後の小さな事故が、この時代の大きな事件を簡単に塗りつぶしてしまう。

 私たちが百年前の関東大震災のことを数行で学び終えてしまうように、いずれ東日本大震災も、数行で学び終えられてしまう時代が来る。その時にはもう、関東大震災は教科書にすら載らなくなっているかもしれない。その悲惨さも、残酷さも、人間の愚かさも、たくさんの人の努力も、思いも、願いも、私たちがもうほとんど知らないように。
 そうなったとき、価値を持つのは私たちの主観的な日記なのだ。私たちの精神の心臓なのだ。私たちが関東大震災のことを知りたいと思った時、ウィキペディアや教科書は何の役にも立たない。その時代を生きた人の、切実な感情や想いだけが、私たちの精神に響き、生を感じさせる。それが「本当にあったことである」ということを、認識させる。

 私たちの想像力だけが、私たちの経験していないことを、私たちが理解し、信じるようにさせてくれる。この、すぐに思い込み、間違ったことを信じてしまう、不安定な想像力だけが、私たちを私たち以外の他者の存在へと導いてくれる。

 いつの時代にも人間は、理性も想像力も欠けていた。その両方が十分でなくては、美しいとは言えないのに。
 だが喜ばしいことに、理性と想像力を兼ね備えた人間たちの声だけが、はるか古代からこの現代まで届いてきている。彼らは私たちよりも優れていた。人間として、より高度であった。
 彼らは死んでいった。私たちも死んでいく。

 私たちに、百年後、千年後まで生きる言葉を産み出すことができるだろうか? ただ残るだけでなく、その時代を生きる人々が、私たちの生を感じ、そこに美を見出すほどの何かを、私たちは産み出すことができるのだろうか?

 私たちはあまりにも、私たち自身の精神の貧しさに対して無頓着なのではなかろうか。自分が精神的に貧しいことを自覚できないほど、貧しすぎるのではなかろうか。

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