魂とは何か

 私は概念をできるだけ自分の中ではっきりとした形として認識することを是としており、私の中では「魂」というものは、理屈で理解できるものである。

 私は「魂」=「肉体に対応する精神の集合体」であると考える。

 そもそも「精神」とは何かという私の中での解釈を説明しておかないと訳が分からないと思うので、それを先に説明しよう。

 精神とは、一連の内的なはたらきのことである。精神の働きは、たとえば外的な温度が上がったときに「暑い」と感じることであり、それは人間だけに備わったものではない。
 動物には動物の精神があり、植物には植物の精神がある。
 狭義の「精神」は人間の内的な働きのみ指し示すが、広義では「植物や動物の一連のはたらき」もまた「精神」である。それだけでなく、本や脚本、コンピュータプログラムなどの人間が意識的に産み出したものもまた、時間の中で特有のはたらき持つのであるから「精神」の定義に当てはまる。

 もちろん、それらが「同一の精神」と言っているわけではない。それぞれ違ったはたらき方をしているが、それがはたらきであるという点で、共通しているだけである。
 もっといえば、狭義の「(人間の)精神」と言えども、各個人によってそのはたらき方は異なるので、同一のものではない。

 さらにひとつの肉体にひとつだけのはたらきがあるわけではないので、ふつうひとつの人間の肉体には、複数の「精神」が宿っているのである。
 似た言葉には「心理」がある。

 そのうえで、ひとりの人間に含まれる「精神」全てを集めたものを、私は「魂」と解釈している。あくまでそれは集合体であり、何か独立した実体ではない。(というか、この世には独立した実体など存在しない。それは人間が情報をやりとりするうえでそう考えたほうが楽だから成立した概念であり、細かな認識をしていくと、独立している実体はあくまで観念上のものであることが容易に理解できるはずだ)

 私は肉体を離れて魂は存在しえないと思う。というのも、魂はあくまで肉体の働きであるから、人間の肉体なきところに魂は存在しない。
 もっといえば、魂は絶えず移り変わっていくので私が「今のこの瞬間の魂たる私」を保存しようとすることは不可能であり、「今この瞬間の魂たる私」は実質的に滅び続けているのである。変化というものを消滅と生成の繰り返しと解釈するならば、私は確かにこの瞬間も消滅し続けているのである。

 ただそれは、この世界そのものの元からの性質であり、私たちの精神がどうはたらくかによって異なるものではないので、不安になる必要はない。というのも、私たち人間はあくまで、その場限りの「私」なのだから、その連続性は肉体的な都合上のものなのだ。私たちはこの有限たる肉体の中で全力を尽くすことしかできないので、それをすること自体が私たちの為すべきことなのである。

 人間は実のところ、死も消滅も変化も、恐れるように仕組まれてはいない。私たちに仕組まれたはたらきは、あくまで恐怖であり、そしてその恐怖の対象は、私たちが危険だと判断したものである。
 死は、肉体にとって最大の危険である。ゆえに私たちは死を恐れるという生物的宿命を乗り越えるために「生まれ変わり」や「天国」を産み出したのである。これらの概念は、きわめて有用である。
 私たち人間は時に、死の危険のあることに向かっていかなくてはならないから、そういう時、冷静に今私が語ったような理屈を自分に説得できるとも限らないので、自分が本質的に死なないということを自分自身に言い聞かせなくてはならない。

 私自身も「私たちはすでに死に続けているのだから、死を恐れる必要はない」などと言っているが、死を目前にした場合、私の肉体は生きるために自動的にあがく。危険から、全力で逃げ出そうとする。立ち向かうには、理屈ではなく、信念が必要である。

 私たち人間は多くのものに恐怖する。実際に危険ではないものを、勝手に危険だと思い込む生き物である。
 死というものは、実際に危険である。ただし、死という観念自体は危険ではない。死を想像することや、死について考えること、死を大したものじゃないと考えること自体は、少しも危険じゃない。
 今私が言ったように、死後の世界などありえないということを考えることも危険ではないし、自分自身が実際に死を目の前にして、それに必ず恐怖するという想像をするのも、危険ではない。

 ただし、死そのものは肉体にとって危険である。私たちは、肉体を大切にしなくてはならない。魂は肉体を依り代としているのではなく、あくまで魂は、肉体の機能なのである。
 魂の危険は肉体の危険になりうるが、それは肉体と魂、相互の誤解が原因である。主従関係の乱れに原因がある。

 肉体が主であり、魂が従である。ただし、それで魂の価値が下がるわけではなく、むしろ、魂の価値をそのままに、魂の神秘性をそのままに、肉体にさらに高い価値を見出すべきなのだ。

 肉体と魂の関係は、コンピュータの本体と、複雑に入り組んだプログラムの関係に似ている。

 本体が肉体であり、プラグラムが魂である。私たちはプログラムが重要であることは、理解している。優れたプログラムがあれば、より優れた仕事ができる。だが、本体を疎かにしたら、その優れたプログラムは動かなくなるし、そもそも優れたプログラムの性能を最大限発揮するには、本体のメンテナンスをしっかり行わなくてはならない。

 何度も言うが、人生は素晴らしいし、世界は神秘的だ。そしてそれは、私たちの肉体が産み出した神秘なのだ。神も、仏も、悪魔も、天国も地獄も、数々の理想も、素晴らしきものだ。美しいものだ。それらは全て、それ以上に複雑かつ神秘的な人間の肉体が産み出したものなのだ。
 私たちは私たちが思っているよりもずっと深く、ずっと謎に満ちている。それは決して私たちに触れられぬものではない。
 より複雑に、私たちはものごとを理解することができるようになっている。それは、喜びである。
 純粋かつ複雑に、明瞭に、快活に、認識できるというのは、本当に喜ばしきことだ。
 何に恐怖すべきで、何に恐怖する必要がないのか分かっているというのは、とても幸せなことだ。

 私は、私の優れた魂を愛している!

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