罪の正体

 よく女が「ダイエット中にカロリー高いもの衝動的に食べちゃって罪悪感がすごい」と言っているのを見かける。まぁこれは私の母の話なのだが……「馬鹿な女」という風に表現したくなるが、あまりにも「あ、私のことだ……」と思ってしまう人が多いと思うので、表現には気を付けようと思う。(という一種の皮肉)

 道を歩いていて、虫を踏んでしまったとき、私は罪の意識を感じる。誰かと喋っている時、その人の気にしていることに知らずに触れてしまった時も、罪の意識を感じる。

 罪悪感とはいったいなんであろう。

 ある人は「他者との関係性における負い目である」と語った。だがその場合は、ダイエット時のルール違反による罪の意識が説明できない。

 またある人は「自分で定めたルールを破ってしまった時の感情」と語った。だがその場合でも、私が虫を踏んでしまった時になぜ感じるのかの説明として不適切になってしまう。私は虫を踏んではいけないなんて思って生きてはいない。


 私はこう主張する。罪とは何か。それは裏切りに対する応報への恐れである。

 たとえばダイエット中にたくさん食べて罪を感じる人間は、それ以前に自分自身に対して「ダイエットを成功させよう」と誓っていたわけであり、それを破って欲望に流されて何かを食べた場合「過去の自分に対する不誠実、つまり裏切り」に該当する。そして裏切りによって、将来の自分が損をすることへの不安感がやってくるのである。この不安感こそが、罪の正体である。罪の意識とは、自分自身が損をしたり、苦しんだり、ひどい目にあったりすることの予測であり、準備である。

 誰かを傷つけた時、その対象が生きているのであれば、その対象が別の機会に自分を傷つけてくるかもしれない。その「復讐を恐れる気持ち」は、ありのまま表現されるにはあまりにも利己的で、人間の精神にとって自分自身で認めるには醜く感じ過ぎてしまうから、その感情を自分自身に正当化するために「罪」というひとつの別の観念を作り出したのである。
 そしてこの「罪の意識」は懺悔や後悔を誘発し、それを言葉や態度に示すことによって、相手の怒りや復讐心を鎮めようとする効果がある。復讐自体が「同じことを繰り返されないための防御手段」であるため、相手がすでにその行為によって苦しみ、不利益を被っている場合、同じことが繰り返されると考えづらくなるため、復讐心は癒されるのである。

 罪と復讐心は対になる感情である。罪の意識は、他者の復讐心を和らげ、他者の復讐心は、その対象の罪の意識を誘発する。

 さて、では一番の問題、私が虫を殺してしまったとき、なぜ罪の意識を感じるのか考察してみよう。これは一見不合理である。死んだ虫が、私に復讐をするようには思えない。私がそれによって不安になる理由は一切ないように思われる。だが私は、何か悪いことをしてしまったような気持ちになる。
 面白いことに、人間は社会的な生き物になっていく過程で「規則」というものを、直接的な利害を無視して用いるようになる。というのも、人間の社会が複雑になるにつれ、それぞれの行動によって、実際にその場にいない人に間接的に損を被らせたり、不幸にしたりすることが可能になってしまったからだ。だからこそ、そのようなことを極力減らすための、個人的な損得勘定を超越した「法律」「戒律」が必要になったのである。
 「理由は分からないが、やってはならないことがある」という感覚。これが標準的に備わるようになった。理由や理屈を超越して、誰かが「やってはいけない」と言ったことが、ひとつの鎖となって人の精神を縛るようになったのだ。
 たとえば私たち日本人は、普通にまっすぐ手を挙げることに罪の意識を感じたりはしない。ドイツ人やフランス人の大半は、まず間違いなく、それをすることに罪の意識を感じる。ナチスの敬礼を想起させるからだ。
 そのような罪の意識は「それによって不快になる人がいる」ということによって生じる。直接的に自分が意識しなくても、誰かが不利益を被るかもしれない、という予測が、半ば自動的に、私たちに罪の意識をもたらすのである。

 私が虫を踏んで罪の意識を感じるのは「一寸の虫にも五分の魂」とか「すべての命には価値がある」とか「輪廻転生」とか、そういう観念が私の精神にこびりついているからだと思われる。つまり、虫を殺してもなんとも思わず生きていたら、それだけで誰かにとっての不快や不利益をもたらすかもしれない、という恐れが生んだ感情であり、優しさなどというものではない。どちらかと言えば、極端な臆病さに起源を持つ感情である。

 私たちは直接的に誰かを傷つけなくても、自分自身が傷つき、復讐心を少しでも抱いた時点で、誰かを恐れさせることがある。誰かにとっての「裏切りが該当する行為の範囲の拡大」になるのである。「負い目」にもなるし「気を遣わせること」にもなる。私たちは生きているだけで、他者を縛りつけ続ける。と同時に、縛らりつけられ続ける。

 聞いたとき、意味がないと思って、気にしないようにしていたはずの言葉が、自分の魂の底に積もって、別の形になって私たちの行動を操っている。誰かが言った「してはならない」「しなくてはならない」が私たちの胸に深く刻み込まれ、私たちの行動を抑制している。私たちに幻想の苦しみを味合わせ、時に意味のない罪悪感をもたらす。

 おそらくではあるが、こびりついた罪の意識を解決するのに有効なのは、赦しや優しさではない。むしろそれらは、罪の意識の範囲を広げ、悪化させる。それは消すことのできるものではないのだ。なぜならば、それ自体がひとつの「欠如」であるのだから。空のコップの「空の部分」だけを消すためには、代わりの何かを入れるしかない。消そうとすること自体が誤りなのだ。
 必要なのは何か。おそらくは、あらゆる復讐をはねのけるだけの強さ。あるいは、自分が破滅することをも恐れない無謀さ。言い換えれば、勇気。蛮勇。

 私たち日本人は、教育課程であまりにも多くの呪いに触れてしまった。何をやろうとしても、何かしらの声が聞こえてくる。それらが私たちの両足を萎えさえ、前に進むのを躊躇わせる。
 必要なのは「だからどうした!」という強い意志だ。「来るならかかってこい! もう一度殺してやる!」というくらいの、自分勝手さだ。

 罪を恐れ過ぎている人間も、罪に苦しみ過ぎている人間も、正直に言って、醜い。見るに堪えない。だが一時的にそうなってしまうのは、仕方がないと思う。私だってそうだ。
 でもいつまでもその中に沈みこんでいるよりは、悪人としてでも前向きに生きていた方がいい。精神的な鎖にがんじがらめになったあげく衰弱死するくらいなら、善や規則、復讐心と戦った末にぼろぼろになって死ぬ方がいい。その方が美しい。

 私はよく思う。もし私が最後に極端な自分の趣向に基づく意見を言わなければ、今より多くの人が私に同意してくれるだろうし、普通に「役に立った」と私に好意を抱いてくれるとも思う。「罪悪感を感じないために大事なのは、勇気を持つこと。どんなことも正面から受け止めること。大丈夫、あなたはひとりじゃない」みたいなふんわりしたことを言って締めれば、いい気分のまま私の記事を読み終えられる人が増えることだろう。でも私は、そういうのは不誠実だと思う。
 それに一度そういうやり方をすると、私は別の機会に自分の趣味のことを語りづらくなると思う。
 私はいつも、人間としてどう生きるのが美しいのか、ということを考えて生きているし、ある意味では、それが一番大事なことなのだと思っている。思うことが多い、という言い方をした方が適切かもしれないが。

 罪との付き合い方。とても難しいことだと思う。結局最終的には「こうした方がいい」とか「こうしなくてはならない」とか、そんな決め方ではなく、「こうしたい」という、ひとつの個人的な趣味として決めるしかないのだ。だってそうじゃないか。だって「しなくてはならない」は常に、それ自体が罪の意識となりうるものなのだから、そう考えた時点で、ひとつの罪として機能してしまうのだ。そうならないためには、別の観念を持ってくるしかない。
 でも私の「美しく生きていたい」だって、一歩間違えれば「美しく生きるつもりのないものはそれだけで罪である」に変わりかねない。それじゃ、本末転倒だ。

 人生は難しい。
 罪は……最終的には、避けるものではなく、選ぶものなのかもしれない。


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