スイミー

 私は昔から皮肉的な性格だった。

 スイミーという絵本を知っているだろうか。
 あらすじをウィキから引用してこよう。
 検索すれば読み聞かせの動画も出てくるから、それを見てきてもいいと思う。


スイミーは小さな魚。仲間たちがみんな赤い魚だったのに、スイミーだけは真っ黒な小魚だった。しかし、泳ぎは仲間の誰よりも速かった。大きな海で暮らしていたスイミーと仲間たちだったが、大きなマグロに仲間を食べられてしまい、泳ぎが得意だったスイミーだけがなんとか助かる。

仲間を失ったスイミーはさまざまな海の生き物たちに出会いながら放浪するうちに、岩の陰に隠れて大きな魚に怯えながら暮らす仲間そっくりの赤い魚たちを見つける。スイミーは一緒に泳ごうと誘うのだが、大きな魚が怖いからと小魚たちは出てこない。

そこでスイミーは、大きな魚に食べられることなく自由に海を泳げるように、みんなで集まって大きな魚のふりをして泳ぐことを提案する。そしてスイミーは自分だけが黒い魚なので、自分が目になることを決意するのだった。かくして小魚たちは大きな魚を追い払い、岩陰に隠れることなく海をすいすい泳げるようになったのであった。


 幼稚園か小学校かで、この話をはじめて聞いた時、私は大人たちの軽率な思惑というものが透けて見えて、気分が悪くなった。
「たとえ自分が他の人たちと違っていても、勇気を出して、皆を集め、敵を追い出して、平和と安全を謳歌しよう。それが正しいことだ」
 
 小さな黒い魚。しかし、種によって、生き残れば大きくなる魚もいる。
 なぜ自分と同じ魚を探しても見つからなかったのか。
 どうしてスイミーは、一匹で泳ぐことがそれほど苦ではなく、自分より大きなものを冷静に眺めることができたのか。広い海を、興味深い目で、楽しく泳ぐことができたのか。
 自分より体が大きくとも、実際には害のない生き物たちを「仲間たち」と見做すことができたのか。
 スイミーは「ただ他の兄弟たちと色が違うだけ」と考えていたが、実際はおそらく……肉食魚でないにせよ、マグロのような大きな魚の稚魚であったのだろう。そう考えれば、筋が通る。
 何よりも決定的に「大きくなれば、他の大きな魚には襲われないし、追い出すこともできる」という発想自体が、弱肉強食を理解し、その中で強者の側に立てる生き物の考え方なのだ。
 生まれつき小さな体で、成長しても小さな体のままで、ただ逃げることしかできず、襲うことや戦うことが一切の選択肢に入ってこないような生き物が、そのように考えることなどできるはずもない。


 この物語は「小魚たちが岩陰に隠れることなく自由に過ごせるようになった」というところで終わるが、幼かったころの私は、この物語がその後も続き、スイミーの体がどんどん大きくなり、小さな魚たちから恐れられ、かつて自分が追い払ったマグロと出会い、話をする、というところまで想像していた。

 そこまでくれば、この物語は人間的な物語になる。人を率いる能力のある人間が、社会や権力、暴力に反抗しても、結局自分が成長して、反権力の側に立てなくなると、そこで自分を見失い、結局は中道寄りの人間になっていく。

 大きな魚のいない世界なら、小さな魚たちは楽しく平和に過ごせる。そういう状況を作り出せると思ったその刹那、自分が大きな魚になるしかないことに気づいてしまったとき、彼はどうするだろうか? 自ら死を選ぶだろうか? そんなわけはない。
 緩やかな共存を選ぶに決まっている。マグロの側に立てば、マグロにも優しさや愛情があることに気がつくだろうから、結局は互いの権利を侵害しない範囲で共存していくしかない。
 結局この絵本は、権力の側からも民衆の側からも気に入られ、一個の権威として成立するくらいには、大きくなった。

「作者は絶対にそんな意図を持っていなかった」
 そう人は反論し、私の意見をくだらないと一蹴してしまうかもしれない。ほとんどの教師たちはまず間違いなくそうであろう。
 だが、あらゆる物語には「人間の作者」がいる。人間の作者が、実際の経験や人から聞いた話を材料とし、それを再構築することによって、物語というものが完成する。

 全ての物語は現実の比喩であり、だからこそ「単なる魚の物語」なのに、人間の子供の教育なんかに使われているのである。それは「魚の物語」の皮を被った「人間の物語」なのだから。

 たとえ作者は意識していなくても「そう解釈しうる」ということだけで、その物語の意味としては成立してしまう。

 物語に意図しない比喩や解釈が混ざり込むことは、物語を書いたことのある人間なら誰もが知っている。

 実際、好きでもない絵本を無理やり読まされ、きれいごとみたいなたったひとつの解釈を押し付けられた。より人間社会の現実に近い力なき想像は、叩き潰された。
 美しい絵本が作り出した現実は「それ」だった。

 子供にとって「大きなマグロ」は身近な大人たちだが、真剣に物事を考え、知恵を絞り、自分たち小さい人間だけで何とかで幸せになろうとしても、気づいたら自分が大人の側、現実の側に立ち、弱い人間や小さな人間を統率しようとしてしまっている。人間とはそういう生き物なのだ。

 群れの目になれるような人間にしか、世界の広さや美しさを愛することはできない。

 奇妙な人間、美しい景色。他と共有するためではなく、見て、知るということ自体に喜びを感じること。私はこの作品を押し付けてきた連中が嫌いだったが、作者のことは好きだった。

 自分が絵本好きな人間だったということを、最近思い出した。

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