否定の否定は肯定か

 ここにひとつの命題があるとしよう。
・私は男である

 これを否定にするとこうなる。
・私は男でない

 否定の否定だとこうだ。
・私は男でないことはない


 もう少し分かりやすく言い換えよう。
・私は「男」に該当する

・私は「非男」に該当する

・私は「非男」に該当しない


 それで、否定の否定はすなわち肯定であるかという話であるが、この場合、それは正しい。意味を限りなく単純化した場合においては、「非男でないこと」は「男であること」に等しい。

 私はここであえて厄介な問題を持ち出そうと思う。ここにひとつ「女」という観念が入ってくると、この命題は少し複雑になる。

 もし最初に「全ての人間は男か女である」という前提を立てたなら、このようなことが成り立つ。
・男でないもの(非男)は全て女である
・女でないもの(非女)は全て男である
・男でも女でもないもの(無性)は存在しない
・男でも女でもあるもの(両性)は存在しない
 だが、これは現実にそぐわない。考えやすくするためにこのような前提に立つと、机上の空論になる。

 だから実際に即して考えるならば、このようなことが成り立たないといけない。
・男でも女でもないもの(無性)は存在する
・男でも女でもあるもの(両性)は存在する

 さらに面倒なことに「全ての人間は男か女か無性か両性かに分類される」というのも、まだ正しくない。つまりその四つ以外の何らかの性にまつわる例外が、見落とされている可能性が否定できないからだ。だから、ここで正しく考えるには、このように定義しないといけない。

「人間の中には、男、女、無性、両性などが存在する」

 こうなったとしても、最初に言ったような「非男でない者は男である」という「否定の否定は肯定」であるということは覆らずに残っている……と言いたいところだが、ちゃんと確かめてみよう。
 この場合「非男」とは「女、無性、両性、その他」を表しているように考えられる。
 落ち着いて考えてみよう。先ほどの「両性」の定義は「男でも女でもあるもの」なのだから「非男」に両性が含まれているのはおかしい。
 そういうわけで、ここでいう「男」の範囲が、「両性」というものを含むかを考えなくてはならない。「両性」だけでなく「その他」の中に含まれている、男に該当する存在を「男」の範疇に含めるか考えないといけない。

 図に示そう。

イラスト

 このような図が頭の中にある場合においては、先ほどの命題「非男でないものは、男である」は成立する。
 しかし、もし男の範囲に両性を外したり、あるいは、両性というものを「男と女の重なり」ではないものとして取り扱うと、また話は変わってくる。

 この話で私が何を言いたかったか説明しよう。否定の否定が肯定になるのは、その中に論理の一貫性がある場合だけなのだ。しかもそれを発する側と受け取る側の間で、正確な認識の一致がなければならない。

 たとえば片方が「人間は必ず男か女のどちらかであり、それ以外の者たちのことは考えづらいので認識の外に置いておく」としていた場合、ある人の「非男」と、またある人の「非男」は意味合いが変わってきてしまうのだ。
 先ほどの図で書いた認識体系を基に話すと「非男」というのは、両性、その他男性を含むあらゆる性別的な属性を含まない属性に含まれるもののことを言う。繰り返しになるが、この認識に基づくと、両性は男に含まれるのである。「非男」と言ったときに、その中に両性的な人間や両性具有者は含まれないのだ。
 だが「男女二元論」的な認識体系をもとに考えている場合「非男」はすなわち「女」に固定される。この場合「非男でないもの」とは「女」であり「女でないもの」はすなわち「男」になる。
 先ほどの認識体系においては「女でないもの」は、男であるとは限らないうえに、しかも男に含まれる「両性」に属する人間は「女でないもの」にも含まれない。
 このように、認識体系が異なると「否定」の範囲も異なってしまい、概念が混乱する。

 肉体的な性別を性別として認識している人もいれば、生き方や意識の問題を性別として認識している人もいる。体の「男」「女」よりも「男らしさ」「女らしさ」を性別の基本的な基準にしている場合、当然、ある人の否定の否定が、別の人にとっての肯定にぴったり一致することはあまり多くないのだ。

 さらに、人間の中にはひとつの整った認識体系があることはまれであり、ほとんどの人間の中には互いに相矛盾する認識が存在し、争い合っている。「一回目の否定」と「二回目の否定」の間に、認識体系のズレが生じてきていることが多々あるのだ。
 先ほどの話を持ち出すならば「男ではないこと」について一回目の否定を持ち出して、その後「非男でないこと」について男女二元論的な認識で否定をした場合、おかしなことが起こる。男でないものが男に含まれていたり、男に含まれるものが男の外側に飛び出したりする。
 どちらか片方の認識を堅持して語っている場合はスムーズに一致することが、両方を考慮して考えていると、一致しなくなってしまうのだ。


 そういうわけで、私たちはこのように認識しておくべきだ。
「厳密な論理に基づけば、否定の否定は肯定に一致する。ただし、日常生活で話す言語を用いて論理の厳密さを保つことはほぼ不可能であるため、日常生活においては、否定の否定は肯定に一致しないことが多いものとして取り扱おう」

 特に異なる認識を持つ他者と会話し、自分の認識を捨てずに相手の認識を尊重するためには、かなり頻繁に概念が矛盾することを許容しなくてはならない。
 私のように一貫した認識体系を持とうと試みている人間は極めて稀であるため、たいていの人間は、自分自身の中に異なる認識体系とそこから生じてくる見逃しがたい矛盾を持ち、しかもそれに気づいていないのだから、それにも我慢しなくてはならない。

 くれぐれも「たったひとつの正しい認識がこの世界には存在する」などと思うことのないようにしよう。それぞれの認識は相対的なものではないが、並列的なものであり、もしもっとも確からしい認識があるとすれば、それはもっとも多様な認識を内に含んだ「大きい認識」であると考えらえる。それはあらゆる認識同士の矛盾を許容し、尊重している。

 先ほど私が「男女二元論」と「集合論的男女観」を並列的に並べたように、どちらにも与さず、どちらをも内に含んだ認識こそが、もっと確からしい認識であると私には思われる。
 だがそのような認識の中では必ず矛盾と誤謬が生まれてくる。だからそれを、矛盾や誤謬として認め、そう認識していなくてはならないのだ。

 矛盾を無理やり解くことのないように。
 それは矛盾すべきものとしてそこにあるのだから。


 あともうひとつ、大事なことだから付け加えておこう。複雑な認識というのは、単純な認識をしている人から見ると苦しくてつまらなそうに見えるが、実際に複雑な認識ができるようになってみると、単純な認識しかできなかった時よりも、ものごとがすっきりして見えるようになる。
 何らかの気に入らないことがあった時、なぜ自分がそれを気に入らなかったのか、そこにはっきりとした理由を見いだせれば、その不快感は多かれ少なかれ癒されるのだ。
 分からないことがあった時に、単純に捉えて解決したつもりになっても、うまくいかないことはとても多いし、そのことで不安を感じてしまう人も多いと思う。
 でもものごとを複雑かつ一貫性をもって捉えることができるようになれば「分からない」は楽しみの材料になる。
 視界がより明瞭になる。「分かりようもないもの」の範囲が狭まり「分かりうるもの」の範囲が広がる。

 矛盾することが怖くなくなり、あらゆる知識や言葉に対する忌避反応が弱くなる。
 それに、多くのことを知ると、人は自然と上品になっていく。
 品性とは、その人間が尊重できる人やものの広さのことを言うのだから、より多くのことを知れば、その分だけより多くのことに配慮できるようになる、というわけである。

 私はもっと賢くなりたい。他の人たちにも、もっと賢くなってもらいたい。

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