自分が幸せになるために誰かを不幸にすることは肯定されるべきか

 これは小学生のころ馬鹿みたいに悩んでたことなんだけどね。今はもう全然考えないし、興味もないね。
 でも時々頭によぎることはあるし、考える余裕があるときにちゃんと考えておこうと思うので、うん。書きまーす。

 思考を整理するために、最初に定義づけしましょうね~~

幸福とは何か

 ここはもう単純に決めちゃう。生活の満足度。それだけ。幸福度調査とかではかるのと同じやつ。精神的な充足度。
 意識的な部分と無意識的な部分の複合として見る。意識的な部分っていうのは「幸せですか」と尋ねられた時の、本人の回答。無意識的っていうのは、体が健康であるかどうかとか、日々イライラしている時間がどれくらいあるかとか、そういうこと。
 あんまり自分が幸せかどうか意識してない人ってたくさんいるし、そういう人に「幸せですか」「日々に満足してますか」って聞いても、その時の気分によって極端な回答になっちゃうし、そういう意識的な部分だけで幸福度を測るのって、ちょっと偏ってると思うからね。複合的に見ようね。

不幸にするとは何か

 意図的に害をもたらす場合と、それとは別に、間接的に、結果的に、不可抗力的に害を与えてしまう場合とは分けた方がいいと思う。
 だからここでは前者を「加害的不幸」後者を「間接的不幸」と呼ぼうと思う。
 たとえば、うまくいってる会社の同期が妬ましくて、そいつの弱みを握って破滅させるのは「加害的不幸」だけど、うまくいってる会社の同期が妬ましくて、そいつの悪い部分を他の人に言いふらしていい気分になろうとするのは「間接的不幸」と言えるね。


 さぁて一番分かりやすいところから始めようねぇ。

加害的不幸は肯定されるべきか

 これねぇ。復讐心とかも含まれているんだよね。誰かを破滅させたり苦しめたりすることによって、満足感を得ようとすること。
 よくフィクションとかで「人を苦しめてもお前自身が幸せになるわけじゃない」みたいな説教垂れるやついるけど、肉体的に考えれば、ふっつーに、加害欲求を満たすと満足感はあるよ。しかもかなり強い満足感がある。長く続くし「生活の満足度=幸福」という定義を肯定するなら、加害欲求による幸福も、認めたくはないけど、肯定しなくちゃいけないよ。それが、現実的感覚に対する誠実さってものだからね。

 んー。この時点でかなり難しい問題だね。しかも加害的不幸っていうのは、加害する側は基本的にそれによって自分が幸福感を得ていることに無自覚的であることも多いから、なんていうか、すごくめんどくさい。
 「正義」の名のもとに、この衝動を肯定して自分の気持ちを満たそうとする人ってどこにでもいるし、私個人としては、その対象にされるのは本当に嫌。

 なるほど。その「私なら本当に嫌」を個人的な倫理観を定める基礎的な方針にするのは悪くないかもな。それで進めたいと思う。

方針
 自分がされて嫌なことは他者にしない

 ただこの方針にも問題があるんだよね。というのも、人というのはそれぞれ趣向が異なるから、自分がされて嫌なことを好む人間もいれば、自分がされて好ましいと思うことを嫌がる人間もいる。だから「自分がされて嫌なことは他者にしない」とういうのは「自分基準」であり、他者と良好な関係を築くための指針としてあまり好ましくないような気がするのだ。

 「他者と良好な関係を築く」というのも無意識的に私の行動指針になってたね。これいきなり出てきたから、私が無意識的に信じている「正義」なんだろうねこれ。うーん。というか、無駄な争いをしたくないっていう利己的な感情に基づいているような気がするけど、まぁよく分からん。

 ちょっとこんがらがってきたから、戻って整理するね。

・加害的不幸はありふれたものであり「生活の満足感をもたらすもの(幸福)」のうちのひとつとして認めなくてはならない。
・それを全ての人間に対して禁止することはまず難しい。当然、全ての人間に対してそれを全肯定することもできない。
・特にそれが自分自身に向けられる場合は、抵抗しなくてはならない。と、ほとんど全ての人が感じている。
・「他者と良好な関係を築きたい」と私は思っている。
・他者と良好な関係を築くための方針として「自分がされて嫌なことは他者にしない」というのはあまり相応しくない

 よし。保留しよう。これについてはそれぞれ別の機会に考えた方がよさそうだ。全部いっぺんに考えられるほど簡単な問題じゃない。


間接的不幸は肯定されるべきか

 こっちはもう本当に、生きているだけでそうとしか言いようがないよね。たとえば私が大学受験に成功した場合、定員は決まっているのだから、私がその大学に受験しなければ受かっていた人がひとりいるわけであって、私は間接的にひとりの人間を「落っことした」という因果が、まぁ生じてきてしまうんだよね。
 これは別にそういう競争社会だけにあることじゃなくて、たとえばものすごく効率よく仕事のできる人間がいて、その人がただ普通に仕事してるだけで、彼ほど仕事の出来ない人が自分と彼を比べて「私は全然ダメだ」と思ったとすれば、もし彼が並み程度にしか仕事ができないであれば、その人に劣等感を抱かせることはなかったのだから、それもまた「間接的不幸」と言えると思う。
 上司が彼と自分を比べて「お前はあいつと比べて無能だなぁ」と言って、自分を傷つけた場合も同じ。こっちの方がよくあるし、分かりやすいかもね。

 まぁそのような「不可抗力」的なものもあれば、それとは別に「めんどくさいからゴミをポイ捨てした」みたいな、過失的なことによって生じる「間接的不幸」もあると思う。これに関してはなんつーか、意識してどうにかできるならどうにかした方がいいよね。

 そうだな。間接的不幸に関して、ひとつはっきり言えることがあるとすると、過失的不幸(つまり、簡単に防ぐことができたはずの不幸)は、できる限り避けた方がいいよね、ということ。もちろん何というか、それを避けるために必要なエネルギーがどれくらいの量かっていう問題もあって、場合によっては避けることが難しいこともあると思うから、その辺は状況次第なんだけど、単純な倫理的方針として「他者を不幸にしうる過失は出来るかぎり避けるべきである」と私は思う。
 当たり前だけどさ、誰かの過失で自分が不幸になるのなんてただただ気分が悪いし、それに関しては……何も言うことない気がするなぁ。人と関わるなら、やっぱりある程度良好な関係を築いた方が互いにとって得だし。

 整理しまーす。
・不可抗力的な不幸については、まだ考えてませーん。
・過失的な不幸はできるかぎり避けるべきでしょーう。


自分が得する結果をもたらす過失的不幸は肯定されるべきか

 これが一番の問題! というかこれが本題。別に誰かを不幸にしたくてそのようにするのではなくて、自分の目的や満足感のために、誰かを不幸にしてしまうことを分かっていて、あるいは意識的に思考、認識を放棄してそれを実行に移すこと。
(さっきの不可抗力的不幸は、そもそもシステムや自分の能力そのものに原因があって、意志でどうにかできる問題ではないので、これに属さない。受動的なものであって、どれだけ考えても自分自身に責任があるという実感が持てないものであるなら、当てはまらないと考えた方が自然)
 たとえば自分よりうまくいってる同期がいて、そいつを妬ましいとも不幸にしたいとも思っていなかったが、ただ自分が出世するのに邪魔だったので弱みを握って破滅させるということ。
 そういうのを「自分が得する結果をもたらす過失的不幸」と呼ぶことにしよう。「利己主義的過失的不幸」と呼ぶ? うーん。「的」が二つ並ぶのスマートじゃないんだよな。ちょっと語弊あるけど(んなん最初からそうだし)「利己的不幸」でいくね。

 自分の幸せのために人を不幸にすること。これを「利己的不幸」と呼ぶ。これが肯定されるべきかどうかだ。

 すごく難しい問題だと思う。国家間の争いは基本的にこの「利己的不幸」に基づいているし、ほとんどの人間は、意識的にせよ無意識的にせよ、これに小さな抵抗を感じつつも、実行することに支障をきたすほどの強い罪悪感は感じない。なぜならそれが「加害欲求」ではなく「幸福への欲求」に基づいているからだ。幸福への信仰心によって、加害してしまうことへの罪悪感が薄れているのだ。
 これは、神のためなら人を殺してもいい、という狂信的な考えに少し似ている。
「家族との幸せな生活を守るためなら、他の誰かを蹴落としてもいい」
 そっくりだね。そっくりだからこそ、これが大きな問題になる。
 というか、この世に存在する争いのほとんどが、これに対する感覚に原因がある。

 言ってしまえば、これが肯定されるのならば、同時に私たちはあらゆる戦争や競争を肯定し、弱者が不幸になることを肯定しなくてはならない。逆に、この世のあらゆる戦争や競争を否定し、弱者が幸福になることを肯定したいならば、このような「利己的不幸」を他者にもたらすことは、己に禁じなくてはならない。(そしてそれをもたらすものを憎まなくてはならない)

 うーん共産主義のにおい! なかなかにおいますねぇ……芳しい。

 まぁ何もね、どちらかを選ばなくちゃいけないわけではなくて、私たちは常にその間でバランスを取ってるのが実情なんだと思う。
 自分の幸せのために人を不幸にすることは、現状、現実的に考えて、肯定されうる。ただし、それによって人を不幸にする度合いが、一定の限度を超えてはならない。というのも生活の満足度というのは何も「YESかNO」ではなくて「どれくらい」というものだから、ほとんどの人は、自分がそれによって幸福になる程度と、相手がそれによって不幸になる程度を天秤にかけて、自分の行動を決定していると思う。

 うーん。功利主義のにおい! ぷ~~~ん。

 コモンセンスって感じだね。まぁ人と関わるうえで、一番手っ取り早いというか、効率的に皆の満足度を上げるためには、功利主義的に生きるのが都合いいんだろうなぁとは思う。
 でも私はこれ嫌い。なんでかっていうと、嫌いだから(同語反復!)。
 面白くないし、一番気分が悪いのは、この功利主義的な考えっていうのは、基本的に自分がそれを信じている場合、ほぼ必ず同じことを他者にも要求するという、均質への欲求が産まれる、ということ。
 自分個人のみがその功利主義的な気遣いをしている場合、自分だけが損をしてしまうから、多数の人間が自分と同じことを信じて相互に助け合っていないと、功利主義は成り立たないのだ。功利主義的な思想は基本的に、排他性を内に秘めている。


終わりに

 幸福(生活への満足度)をベースに人生を考えると、今私が考えたように、どこを見ても気分が悪くなってしまう。
 自分が満足しているためには、誰かが不満足である現状を肯定し、見て見ぬふりをしなくてはならず、反対にそれを改善したいと本気で思うならば、そのために自分自身が犠牲になるような生き方をしなくてはならなくなる。

 だから私は、人生の目標に「幸せになること」を置くことに反対なのだ。人間は何も生活の満足度のためだけに生きてるわけじゃない。それは人生に基礎的な強度をもたらすけれど、それはあくまで人生の前提だよ。
 「幸せであることが人生の目標」っていうのは言い換えれば「快適な家に住むことが人生の目標」って言っているようなものなのだ。あんまりにもつまらない。くだらない。
 ただ、快適な家に住めば、仕事が捗るというのは事実だ。幸福は決してないがしろにしていいものではないが、かといってそれが全てではないことを忘れないでいたい。


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