宗教と哲学を同じくくりで捉える

 一般的な日本人には考えられないことかもしれないが、西洋の哲学はほとんど宗教との間に境界線がない。
 中世の間では、哲学は神学の侍女と呼ばれていたし、そもそも哲学の祖であるソクラテスは信心深い人間だった。
 一神教の考え方はプラトンのイデア論との間に深い関係があるし、キリスト教徒の哲学者たちは、神を信じたまま自分の頭で考えていた。

 デカルトは全てを疑うといいつつも、神を疑うことだけはしないように気を配っていた。スピノザは、神を確信していたがゆえにユダヤ人でありながらユダヤの組織から追放された。
 ライプニッツは神は全てが結果的に一番よくなるような運命を用意してくれていると無邪気にも信じ込んでいた。

 無神論者ですら、神という概念を意識して語っていた。たとえ神が存在しなくても、人間は神を信じる生き物だということを、理解しながら語っていた。神という概念と、それのもたらす大きな力に、無神論者たちは驚嘆と敬愛を抱かずにはいられないのだ。
 だってそうじゃないか。どれだけ多くの人間が、本気で神を信じ、その結果として、だれだけ多くの素晴らしいものが産み出されてきたことか。

 哲学は基本的に宗教を愛さずにいられない。神秘的で、理解できないものを愛さずにいられない。私たちはそれを繋がりの中で捉える。別のものだからと分けて考えることは、不正であると考える。両方に対する無礼であると考える。

 日本人に哲学的なセンスがない理由は、西洋的な歴史観、宗教観がほとんどないからである。歴史とは我々現代人が信じている独断や偏見とはかけ離れた、また別の独断や偏見の集合体である。
 自分が信じているのとは違う独断や偏見をいったん信じて読んでみるということができない人間には、哲学書を気分よく読むことはできないと思う。

 常に自分の時代の感覚がもっとも優れている、もっとも正しいと考えるのは、全ての時代の愚か者に共通した特徴である。
 しょせん自分が信じていることは、あくまで自分の時代の現実に都合がいいから信じているだけだと分かっているならば、他人が別のことを信じていたとしても、それと同じことを一瞬だけ信じてみるということができるようになるはずだ。

 信念は比べることができる。高いと低いが存在する。深いと浅いも存在する。
……好き嫌いが存在する。両者ともに誤っていても、好ましい誤り方をしている場合とそうでない場合がある。

 哲学の歴史は誤謬だらけである。だが我々の認識は、そういうものなのだ。
 そうでなくては我々は生きていけなかった。嘘を信じることによって、現実を生き抜くというのは、我々の無意識的な知恵なのだ。

 他者の誤りや嘘に尊敬の念を抱くことのない人間には、人類の歴史の本質は少しも分からないと思う。

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