なくならない声と祈り

「いつまでも声がなくならないの」
 憔悴しきった様子の彼女が、微笑みながらそう言ったとき、私は返す言葉を失った。
「誰かから私が言われた言葉じゃないの。ただ、世の中が、人々に対して言った言葉だったの。でも、私はその人々のうちのひとりだったから……」
「それは、どんな言葉だったの?」
 彼女は目をつぶって、首を振った。
「どうして私が嫌いな言葉を、私の口から言わなくちゃいけないの?」
 震える手。優しそうな小さくて穏やかな声。無理して作っていたはずの微笑みも、もはや自然すぎて……
「ごめんなさい」
「責めているわけではないの。あなたの私への興味や気遣いは、嬉しいよ。感謝してる」
 そう言って、一瞬だけ私から目を背けた。その瞬間の、あの完全に冷めている大人の目は、いったい何を見てそうなったのだろう。
「慣れるって、悲しいことだと思う?」
「え?」
「色んなことに慣れて、どんなに苦しくても、まぁ慣れてるしなって思うと、その苦しみがなくなるわけではないけど、少なくとも不安や恐怖は小さくなるよね。でもそうやって、どんどん色んな不安や恐怖を感じないようになっていって、その先に残るものは何なのかな? 穏やかな最期? それとも悟り? 涅槃? いやまぁ、何でもいいんだけど……その、どうして私の人生はこんなに苦しいのかなって思って」
 私は、そのことについては何も考えられない。私は彼女の苦しみなんて分からないし。
「さっき、どんな言葉かって聞いたよね。今私の頭に浮かんだ言葉は『お前だけが苦しんでいるんじゃない』とか『もっと苦しんでいる人もいる』とか『不満を言ってるだけじゃないか』とか『そうやって嘆いたって何もはじまらない』とか、そういう言葉たちだよ。私が何かを本気で訴えようとすると、本気で何かを望もうとすると、必ず私の前に顔を出して、その大きな声で私の耳を塞がせる。そうなったらもう、私は動けない。慣れても、平気になっても、動けるようになっても、私は相変わらず、苦しいまま。軽い気持ちでそういうことを言う人は自分の口にした言葉がどれだけ私を傷つけたかなんて知らないだろうし、そんなことを言ったって、それに対してもまたひどい言葉を返すんだ。少なくとも私の頭の中ではそうだから。時には開き直って『じゃあ謝ればいいの? 謝ればあなたは満足なの?』とか『はいはい。私がわるぅござんした』とか言って、逃げようとするんだよ。私は……あの人たちが、死ねばいいと思っている」
 微笑んだまま、優しく柔らかい声で、そんな言葉が出てきたから、私は驚いて言葉を失ってしまう。喉に何かが突っかかったような気持ちになって、心臓もいつもとは違う動き方をしていた。
「死ねばいいと思っている……」
 反復する。
「うん。もし、そういう人がこの世からみんな消えたら、私はきっともう苦しまずに済む。少なくとも、あの人たちの声に怯える心配はなくなる。でもさ、そんなことできるはずもないからさ、望むくらいはいいじゃん。恨んだっていいじゃん。こんなに苦しいんだもん」
 ぽろり、と涙を一筋流した。
「私は、あなたの味方だよ」
 思わずそう言った。
「でもあなたは、彼らの敵ではない」
 私は首を振った。でもそれは、どちらの意味の否定かは自分でも分からなかった。私に、そこまで強い恨みや憎しみの感情はないから……
「私はね、私から、この社会を隠してほしいんだ。この社会のことを考えなくて済むような世界を、私のために用意してほしいんだ。もしそれができないなら、せめて、私に対して何も言わないでほしい。これ以上私を傷つけないでほしい。私はもう、苦しみたくないの。傷つきたくないの。放っておいてほしいの。もしそれができないなら、殺してほしい。それか、死ぬのを止めないでほしい。ねぇ……」
「私はあなたに生きていて欲しい」
 それは、本心から出てきた言葉だった。私は彼女が好きだった。その言葉じゃなくて、その声と、姿と、涙と、愛情と……
「嬉しいよ。その気持ちは」
 また、一瞬だけ目を逸らし、遠くを見るような表情をして、目を細めた。
「何を感じているの?」
「見たくないものから、目を背けてるの」
「私が、嫌いなの?」
「嫌いになりたくないの」



 私は彼女の父親と彼女が話しているのを盗み聞きした。盗み聞きと言いつつも、彼女からは許可を取っているけれど。
「まだ気持ちは変わらないのか」
「変わるって、何が?」
「いつまでそうやって自分の中に引きこもっているんだって話だ」
「お父さんには、そう見えるんだね」
「そうじゃなくて、実際にそうだろうが。誰とも関わろうとせず、前向きに何かに取り組もうともしていない」
「それの何がいけないの?」
「そんなのはまともじゃない」
「まともじゃないのは、まともを押し付ける方じゃない? まともじゃない人間にまともを押し付けたって何にもならないことは、まともな人間なら簡単に分かることじゃない?」
「お前はまともな人間だ。ずっとそうだったじゃないか。友達付き合いでも、勉強でも、何か問題を起こしたことなんて一度もなかったじゃないか」
「私に問題はなくても、友達や勉強の方に問題があったんだよ。友達に問題があって、勉強の中にも間違いがあって、そんな間違いの中では、生きていけないって気づいたんだよ」
「みんなその中で生きているじゃないか。その間違いの中で、必死になって生きているじゃないか」
「そうだね。お疲れ様」
「無責任だとは思わないのか? 市民の義務というものがあってだな……」
「あぁお父さん。その話を私にするのはよしておいた方がいいよ。私の方がそれについては詳しいから」
 父親は黙る。
「私はね。お父さんが私を心配してそういうことを言ってくれてるって分かってるよ。でもね、ダメなんだ。ダメなものは、ダメなんだよお父さん。そういうやり方じゃ、私は動かない。動けない」
「じゃあ、俺はどうすればいいんだ」
「自分で考えることができないなら、何もしないで。余計なことをしないで。私の邪魔をしないで。私は私で、何とか自分自身として生きようとしているんだから。何とか、自分を見失わないまま死ぬまで不正から逃げ切ってやろうとしているんだから」
「お前はどうしてそこまで世の中を汚れたものだと思おうとするんだ。確かに、世の中には間違いや汚れた部分があるが、綺麗な部分や楽しい部分だってあるだろう」
「間違いや汚れを必要とする綺麗さや楽しさなんて、私にはそれ自体が間違いや汚れだとしか思えないよ。すぐお父さんたちは、自分たちを例外化して、何とか罪の意識から逃れようとする。そのくせ、偉そうに他者を責め始める。私はそうならないように、綺麗なままでいたいんだ。何もせず、何もせず、何もせず、生きて、死ぬ。私はその生に、誇りを持っている」
「俺は、お前にもっと幸せになってほしいんだ」
「私はもう十二分に幸せだよ。だから、お父さんは自分が幸せになるためには娘がまともじゃなくちゃいけないと思っていて、私を利用して自分が幸せになろうとしているんだよ。それは、私の問題じゃない。お父さん自身の問題だよ」
「違うだろう。お前がずっとそんなんじゃ、お前自身が今はよくてもいつかダメになる。色々なことが間に合わなくなる」
「結婚とか?」
「そうだ」
「馬鹿みたい。結局私が産まれたのだって、その焦燥が原因なんだね。ダメにならないうちに済ませないとって、そう思ったから私が産まれて、実際に私が産まれた後は色々なことがダメになった。そうして、お父さんにとってダメな娘だけが残って、それを今どうにかしようとしている。何もかもが手遅れ、というより……最初から決まっていたんだろうね」
「そんなことは言わないでくれ。お前はまだ若いんだし、今からだって間に合うんだから……」
「何に? お父さん自身は、間に合っている人生を歩んでるの?」
「俺は後悔しているんだ。お前みたいに、若いころずっと遊んでいてどうしようもなくなったやつを何人も知っているし、俺自身だって、若い頃にもっと色々なことをやっとけばよかったって思ってる。若いうちは、何でもできるんだから……」
「何にもできないよ。何にもしたくないし、しないことを是としている。だって、今までお父さんたちが何をやっても、娘である私にとっては、無意味で、無駄で、悲しくて、苦しくて、やりきれない思いをするしかなかったから。私はね、これ以上傷つきたくないんだ」
「そうやって臆病になっていたって、何も変わらないじゃないか」
「変わらないだろうね。それでいいんだよ。だって、お父さんを殺すわけにはいかないから」
「殺したいなら、殺せばいいじゃないか!」
「じゃあお父さんが私を殺せばいい」
「殺したいなんて思ってない」
「じゃあお父さんは私の殺意なんて少しも理解できないし、それについては語っちゃだめだよ」
「どうしてお前はそんなに……」
「恨みを持っている相手に対して平気で接することができるのかって? 慣れてるからだよ。全部慣れたからなんだよ。そうしないと、生きられなかったからね。みんなそうなんだろうね、それに関しては。みんな、慣れきって、何も感じなくなってる。いや、何も感じないふりをしている。感じたって、意味なんてないから」
「医者が音を上げるのも頷けるな。まぁ、また元気が出たら言ってくれ。俺たちはいつまでも待っててやるから」
「切り上げるときのセリフ、いいの教えてもらったね」



「別にお父さんのことは特別恨んでいないよ。私が恨んでいるのは、お父さんも含めた、この社会のまともってやつと、それを信じている人たちだから」
「私のことは恨んでないの?」
「恨まないように頑張ってる。自分のことをよく思ってくれてる人を、恨みたくなんてないから」
「でもきっと、お父さんもあなたのことを大切に思っているよ」
「大切には思ってくれてる。でも、お父さんは私のことを嫌っているし、憎んでもいる。娘だから、大切にしなくちゃいけないとは思ってる。実際に、大切に思ってる。でも、私という人間の性格や生き方は大嫌い。考えるだけで虫唾が走る。我慢して付き合ってやってるのに、全然進展しない。俺の方ばっかり歩み寄ってるのに、あいつの方から歩み寄ろうとする意志が感じられない。やっぱりあいつはおかしいんだ。とかって思ってるよ」
「それだけ分かっててなんで……」
「分かってるから何なの? 分かってたって洗脳できるわけじゃないし、そもそも洗脳なんてしたくないし。良好な関係を築いたって、私自身がお父さんのことを嫌っているんじゃ、何の意味もないでしょ? だって、一緒にいたって苦しいだけなんだから」
「でも、さっきの会話は……」
「少し楽しそうだったって? うん。だって、あれが私なりの静かな復讐だからね。嫌いな人に意地悪すると、少しは気が晴れるでしょ? 私だって子供なんだよ。だから、私なりに反抗してるのかもね」
「いつか……」
「さぁね。それは社会と親の出方次第じゃないかな。私が何かをしようと思ったって、私の不快や意地が勝てば、どうせ何もできない。させてもらえない。もうそれならそれで、いいんだ。私は何もしない人生を肯定しているから……」
「でも私には、あなたが本当にそれに納得しているようには見えないよ」
「うん。だって無理やりそれに納得しようとしているんだもん。でもね、もしこの酷い世の中で平気な顔して生きるのと、この冷たい孤独と何もできないという無力感の中で一生を過ごすのと、選ぶなら、後者だよ。悩む必要もないくらい、そっちの方が簡単だし、私らしいって分かる。そっちの方が、まだ頑張れば納得できるから」
「どうしてそんなに世の中を嫌うの」
「私を傷つけるから。私から私の人生を取り上げようとするから。私に心ない言葉をかけて、繊細さを奪おうとするから。何も感じず生きていけるようになってしまうくらいなら、何かを感じられる人間のまま何もせず死んでいきたいんだ」
「私には分からないけれど……あなたはきっと、間違っていないんだと思う」
「私は正しいよ。正し過ぎるくらいだと思う」
「私は時々、あなたのその正しさが何かの役に立たないかなって思うんだ。その、利用するとかじゃなくて、だってあなたは、誰かの役に立つのが好きな人間だから……」
「正しさが誰かを救ったことなんて、一度もないよ。私が私を救えなかったように、私が誰かを救うことなんて……ありえないとは言えないけど、きっと難しいと思う」
「でも、それはきっと……何もせずに生きるよりは、それに納得するよりは、きっと簡単なことなんじゃないかな」
 彼女は下を向いて沈黙した。じっと黙って考え込んでいる。
「それについては、ひとりでじっくり考えてみることにするよ。ありがとうね」
 そう言って彼女は立ち上がった。
「もしかすると、私はあなたのことを無理せず好きになれるかもしれない」
 振り返らず、ぼそっと早口でそう言って、彼女は自分の部屋に帰っていった。

 その後、私の予想通り、彼女が私と話してくれることは二度となかった。私自身が彼女のことを拒んでしまっていたからかもしれない。確かに私は、彼女に対して何を言っていいのかもう分からなくなっていたし、これ以上彼女に近づくのは私自身にとって危険だという本能的な警告も感じていた。
 入れ込み過ぎてはいけない。分かってる。私は仕事でやっているんだから、あくまで……
 でもそれが、彼女にとっての汚れなのかもしれない。そういう二面性が、職業的な演技性が、彼女の癇に障るのかもしれない。いや、その癇に障るという表現も、きっと私の汚れた感覚から出てきたものなのだろう。実際、彼女の苦しみは、怒りや憎しみは、私には確かに本物だと感じられた。それは決して気分とか、被害者意識とか、そういう問題ではなくて……もっと理想とか道徳とか、そういう気高い問題なのだと思う。でもそれは私には分からないことだし、分からないことだからこそ、配慮もできない。一緒に考えることもできない。そういう自分の弱さや情けなさが、私を彼女から遠ざけたのかもしれない。

 せめて彼女が、いつか本当の意味で他者を許すことができる日が来ることを祈ることにしよう。無責任な私ができる、唯一の無責任だけど、呵責なく行える行動だ。
「でもあなたがそういうことをするという人間であるという事実を、私が感じ取って、それについてすでに予測していたとしたら? もしそうなら、あなたがそういう人間であるということだけで、それに責任が生じてくる。あなたのその呵責のなさが、私を苦しめるとしたら? あなたのその、無意味な善意が、私の自分自身へのふがいなさへの敵意となって、私自身を苦しめるとしたら? もしそうなら、あなたが本当にすべきことは、私への徹底的な無関心なのでは? あなたは徹底的に、私をどうでもいい存在として思わなくてはならないのでは?」
 祈るのは、声が聞こえなくなるまで祈るためなのだ。そうして私たちは、精神を浄化している。
 もしかすると、彼女にとってそれこそが穢れなのかもしれない。私たちはもしかすると、泥で手を洗っているのかもしれない。
 もうそんなことはどうでもいいんだ。ただ、静かに目をつぶって、祈るだけ。

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