全てが一度きりなら理由も原因も本質も、現実の前では無力だ

 たとえばある男がある少女を助けた時、その内的な目的、無意識的な、肉体的な目的が、ある種の性欲であったとしても、その性欲を最後まで抑圧し、ないものとして取り扱ったなら?
 その行動は、より美しいものになる。

 人間は内的な目的に反して動くことができる。そして、そこに残る現実に、内的な目的以上の価値と美しさを見出し、それを新しいひとつの内的な目的にすることができる。

 人間の本能は変化する。どのような本能を持って生きていけるか。どこまで美しい本能を持っていても、生き延びられるか。(というのも、美しい本能というのは『生き残ること』という目的にとっては、不利になることが多いのだから……)
 この地上は、その実験場なのだ。 どこまで綺麗なままで生きられるか。どこまで美しい本能を抱えたまま生きられるか。

 非現実的な本能を持った美しい人間が生き残るためには、そのそばにはどこまでも現実的な本能を持った人間がいなければならず、そしてその現実的な本能を持つ人間の心の底には、絶対に捨てることができないほどの、美への欲求がなければならない。


 私は自分の国を褒めることがあまり好きじゃないが、この国は、ある意味では世界でもっとも進んだ国だ。
 現実と妄想が、高度に混ざり合って調和している。その多様な想像が、多様な美が。

 私はこの国の一番好きなところがあるとすると、世界中の美しいものや喜ばしいものを何の呵責も盗んできて、自分たち向けに作り替えてしまえるところだ。
 日本人にとってオリジナリティとは、模倣の先にあるものであり、だからこそ、それは美しく、しかも生き残ることができる。本来美しいものは、その民族の象徴であり、他の民族からすると嫉妬や軽蔑の対象であったりする。だから、違う土地の美しさは、他の土地には根付かないのが普通なのだ。
 にもかかわらず、日本人はどのような美しさに対しても価値を認め、しかもそれを好き放題弄り回すことができてしまう。
 他民族との交流がありながら、一度も他民族による侵攻により、悲劇的な経験をしたことがない土地(言っておくが人種や民族とは、遺伝子ではなく、土地と目的に根付くものである)は、ここくらいのものだからかもしれない。


 私は、自分がこの時代この地域特有の、よくできた人間であることを自覚している。決して、時代を超えたような立場にある人間ではなく、この時代であるからこそ、存在が許されている存在であることを知っている。

 豊富な精神的食糧を与えられた結果、現実的に生きることができないほどの、不器用な誠実さが育った。
 美しい人間であれ、と言われた結果、通常の社会では生き残れないほどに美しい人間になった。

 ある意味私たちは皆、品種改良された人間なのだ。
 そして私は、その品種改良された中での、イレギュラー。自然界では決して生まれてくることのない、歪んだ人間。美しき青い薔薇。

 理性と感情の両方を、幸福と不幸の両方を、高度な形で備えた、人間的人間。
 私は確かに、人の願いの先に生まれた存在だった。
 科学を直感的に理解できる生まれながらの論理性と、女性らしい豊かだが不安定な情緒。より多くのものを自分の中に取り入れ、それでいて他に染まることもなければ、己を見失うこともない。
 そういう人間が望まれていたから、私はそのような人間になるしかなかったのだ。

 新しい生き物が不安定になり、時に狂って死ぬのは当たり前のことだ。世の摂理だ。
 その実験の成功は、「それ」が安定した時だ。つまり、その実験体が健康になった瞬間だ。
 もちろんその「健康」とは、それまでのありふれた種の健康ではなく、新しい、その実験体に相応しい「健康」だ。
 品種改良された作物は、既存の作物と同じ環境で健康に育てるとは限らない。

 そうだ。私たち人間だって、動物や植物とそう大差ないものなのであり、品種改良は、成功より失敗が多いように、人間には成功よりも失敗が多い。それでいいのだ。
 たくさんの朽ちていった同胞にも、目的はあった。
「もっと美しくなりたい。たとえ破滅してでも」

 私たちに、動物や植物と違う点があるとすると、私たちは自分たちの「目的」を、決定することができるということだ。
 その目的論は、全て因果が逆転した認識である。
 「目的」があるから「変化している」のではない。私たちが「変化しつつある」から、その行き先を「目的」に定めるのだ。

 私たちは、私たちの無意味な変化――偶然が振った賽の目――を「目的」という名で言い換え、神聖なものにする能力を有している。
 6が出たから、私は次も6を出ることを望むのだ。もし1が出たら、私は次も1を望むのだ。それが私たちの「目的」の正体なのだ。

 変化は取り戻せない。私たちは、自分の身に起きた奇妙な異変を、最大限肯定し、それがずっと続くことを肯定しなくてはならない。たとえその先に破滅が待っていたとしても!
 私たちは変化してしまった以上は、そのまま前に進むしかない。その変化を、何度も、何度でも、繰り返すことを望むしかない。
 私たちは、自分たちを偶然や誰かの目的に引っ張られたまま生き続けてはならないのだ。私たちに起きた偶然や、私たちを引っ張ってきた「誰かの目的」を、必然のものと認識し、その中で己の目的を新しく定めなくてはならないのだ。

 それが、私たちの実験なのだ。私たちは私たちの体で常に実験している。

 これでも、生きられるのか?

 これでも、生きていたいのか?

 こうでなくては、生きていたくないのだ! 

 成功した新しい生き物は、同胞を増やすことを望む。

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