私もいつかそうなってしまうのかな

 時々、奇妙な不安に襲われる。

 私は自分の手元に金を集める方法をだいたい知っている。
 関心はなくても、役に立ちそうな知識には一通り目を通す性格だから、浅い理解であるとはいえ、広い範囲に最低限の知識を持っていると自負している。(それも勘違いである可能性は否めないが)

 このご時世、文章でお金を稼ごうとしている人は、別に探そうとしなくてもいくらでも見つかる。noteもそうだし、適当に検索をして出てくる無数のアフィリエイトもそうだ。
 それが簡単なことだとは思わない。ただ、方法は知っている。方法を知っているということは、あと必要なのは努力と根気と自分の意思だけだ。

 世の中は結構簡単にできている。
 実際にやってみたら、あまりにも想像通り過ぎてため息しか出ない、ということが多々ある。
 
 私は一度、在宅のライティングの仕事をやったことがある(おもにまとめ記事)。当時中学生だったので、年齢詐称をして……
 初めてやったときは若干手こずった。時間がかかり過ぎたのだ。一日中やって、三千円とか四千円分くらいしか書けなかった。書けなかったというより、ほとんどボツにされたというのが正しい。
 悔しかったから、数週間ほど意地になって続けてみて、自分の能力なら人並み以上には稼げるということが分かった。
 でも、苦しかった。自分が思ってもいないことを書くのもつらかったし、興味のないことについて徹底的に調べなくてはいけないこともつらかった。
 自分の書きなれた文章をゆがめるのも嫌だったし、結局皆と同じ文章を書かなくてはいけないので、その没個性的な感じも、ただただ気分が悪かった。
 何も楽しくなかったし、お金だって別に、困ってなかった。ほしいものはなかったし、罪悪感もあった。いろいろと詐称してたから。
 自分の中では社会体験ということにしているつもりだったけれど、みながそれに同意してくれるわけではないと思うので……
 なんだか、勝手な想像なのだが、身売りをやっているような気分になった。自分の大切なものを売ってお金を稼いでいるような気がしたのだ。

 私が引きこもりでものんきに構えていられる理由は、たとえ生活に困っても、いつでも稼ぐ手段が存在するということを知っているからだ。逆に言えば、私が不安なのは、いつか本当に働かざるを得ないような状況に自分が追い詰められた場合、私は、自分が認められないようなくだらない生き方をせざるを得ないのだということを知っているからだ。

 ただ自分の金のために書く文章。個人的な想いや願いは全て排除して、読み手のニーズに答え続ける文章。読み手を楽しませ、微睡ませ、社会の流れと共に、意味もなく生活するための文章。
 そんな自分を想像すると、頭がおかしくなりそうになる。

 きっとnoteをやっている人の何割かは、文章で稼ぐことを目標にやっていると思う。私の意見は、そういう人の目標を全否定するものでもある。それくらいの自覚はある。
 それでも、私は私の意見を言うしかないのだ。金や人気に縛られたら、私の本音は消えてなかったことになってしまうから。

 私の目の前にそういう道が存在することを私は自覚せずにいられないから、その道をあえて避けて通っているのだという事実があるのだから、私はそれを語らずにはいられないのだ。

 私は私の自信と傲慢の中間を歩いている。私は自分がその気になれば、人から蔑まれずに済む地位も収入も得られると、無邪気に信じ込んでいる。同時に、それはあくまで自分がそう思いたいから、現実をゆがめてそう認識しているのではないかと疑っている自分もいる。
 自信があるからそう思っているのか、それとも自信がないから自分にそう思い込ませようとしているのか、私には分からないのだ。

 事実や客観的なデータは私を援護する。でも事実や客観的なデータは、しょせん人を説得するための材料でしかないし、前にうまくいったからといって、今後うまくいくという保証にもならない。それは単なる「見込み」でしかないし。

 自分にとって都合の悪い事実は、私を安心させる。

 たとえば私は、おそらくどれだけ頑張っても小説で金を稼ぐことはできないだろうと思う。ライティングで稼ぐのと、小説で稼ぐのでは、難易度も競争率も全然違う。たとえるなら、オリンピックに出場することと市民運動会で活躍することくらい違う。
 どう考えても、私はそのレベルには達していないし、おそらくそのレベルに達するだけの才能もなければ努力をするつもりもない。

 自分の可能性の限界値を定めて、その道には「行けない」と考えるのは、とても楽だ。

 でも、自分に行けるはずの道を「行かない」と考えるのは、とても難しい。
 それは「行かない」ではなく「行けない」なのではないか?
 本当は、傲慢になっているだけで、私はやはり無能なのではないか?

 そんな疑問が私の胸に食い込んでくる。そのたびに私はただ「どうでもいいことだ」「どちらでもいいことだ」と、割り切ることを余儀なくされる。

 私は、自分に絶対的な自信を持つことを、自分に許していない。


 現実は、いつも私を不安にさせる。いつか結婚して、夫の収入だけでは生活費が賄えないから、仕方なく、少しだけ文を売って稼ぐ。
「それでも生きていられるならいいよね。好きな人と毎日一緒に暮らせるなら、私はそれで十分。私は今幸せなんだ」
 そんな生き方をしている自分を想像しては、何か嫌なものを食べてしまったような気分になる。

 もし自分に今後、特別な何かが芽生えなかったとしたら、ほぼ確実にそうなる。そんな予感がしてならないのだ……

 自分の未来が受け入れられないからそう思うのか、それとも自分が心のどこかでそのような緩い幸せを望んでいるからそう思うのか、私にはよく分からない。

 ひとつ確かなものがあるとすると、吐き気だ。 
 私は私の凡庸さに吐き気を感じている。

 私が他の人間を無意識的に嫌ってしまう理由も、そこにあるのかもしれない。

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