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今日から。




今日から僕は、本業の傍ら、「随筆家」「エッセイスト」を名乗ることにした。

随筆(ずいひつ)とは、文学における一形式で、筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文である。随想(ずいそう)、エッセイ、エッセーなどともいう。

自分の体験や考えを文章に書き起こすことが好きだ。
今のままでも、好きなだけ文章は書けるし、
読んでくれている人もいる。十分幸せだ。

でも敢えて目標は「本を出版すること」に設定した。
形に残して、"偶然見てくれる人"をもっと増やしたいんだ。







書くネタは、バーで拾うことが多い。
行動の矛盾、感情の行方、欲望の現れ方、
お酒が入れば”人の中身”は面白いくらい不合理に動く。バーはネタの宝庫なのだ。


”ワザワザ口に出すほどではない屁理屈”を何となく執筆のテーマに置いている。



今回の記事は、
ある人のリクエストで「誕生日」について書いた。


短いので、よければ。






祝ってもらったから嬉しかったのか、
覚えてもらってたのが嬉しかったのか。




LINEのタイムラインに表示される
「友達の誕生日通知機能」


あれは非常に余計なサービスである。
お陰様で個人的に、毎年1月30日辺りに送られてくる「おめでとうメッセージ」が増えた様に思うが、
そんな事で僕の日々の孤独が消えて無くなるわけもない。
なんだか浮雲を捕まされている気分がするのだ。
(さりげなく自分の誕生日をアピールするあたり、 やはり僕は流石だ。)



前提として、
LINEの企画者達の「ユーザーの誕生日を心からお祝いして差し上げたい」という清らかな思いから付属されている機能ではない。
こんなものは、自社の「誕生日ギフト」の売り上げ向上を狙った巧妙なマーケティングでしかないのだ。





”他人の誕生日を祝う”という祭事に味があったのは、もはや昔の事。

一年に一回しか訪れない他人の”私事の番号”をわざわざ記憶している少し変な奴が、 
そっと耳元で、
「覚えてるぞ」なんてドヤ顔で言ってやる。
祝う側も祝われる側も、そんな粋なサプライズ感が心地よかったんだ。



何なら当日である必要もない。
誕生日と全く関係のない日に突然、
「君の誕生日は〇月〇日だろう?」と言い当てられたら十分嬉しいハズだ。






つまり、誕生日を祝ってもらう喜びとは、
店を貸し切ってパーティを開いてくれたとか、
当日のメッセージがどうとか、
そんなんじゃない。


僕の”私事の番号”を、
君が「記憶してくれていた事」が嬉しいんじゃないか。
そこに心があるんじゃないか。
おかしいんだから、普通覚えてないから。






それが今や、
当日に偶然タイムラインを見ただけの”優しい人”に
他人の誕生日を祝う権利が、いとも簡単に発行されている。
もはやこの世界で"誕生日当日サプライズ"に特別感なんてありゃしない。

大安売りだ。
ガッカリさせてくれる。










君に何度もカマをかけて、やっと。
それとなく"プロフィールカード"を書いてもらって、やっと。
友達に協力してもらって、
やっとだ。


密かに探し出し、メモして、大切に温めておいた、
いつの間に覚えてしまっていた”あの日付け”と
まるで天気予報ニュースみたいに、無差別に誰でも分かってしまう”お誕生日情報”とを、



一緒にしないで頂きたい。
一緒にされてたまるものか。







かつて”覚えていてくれた想い”に見染められた心よ。
僕は非常に心配なのだ。

あんなしょーもない機能のおかけで、

「誕生日」を絶好のキッカケとして、
”他の奴になんて負ける筈のない想い”を伝えるチャンスを伺う恋のレジスタンス達の攻撃が、
先方に効かなくなってしまうんじゃないか。



「僕は君の誕生日を覚えていたんだ。
それくらいに君を想っているよ。」




そんな不細工な台詞を、この世から消し去ってしまったあのサービスの罪は重い。


僕はそう言う話をしているんだ。





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