見出し画像

人生の「浅さ」について

InstagramのDMで、「浅いですね」というお便りをいただいた。

「ふーん。」と思ったぼくは、しばらく考えたあと、こう返事した。


「ふーん。」




しかし、せっかくなので、「浅い」とは、「深い」とはじっさいどーなのかを解き明かしておきたい。


—————————————————————

ポテトチップスは食べないけれど


—————————————————————

この方は、恐らくポテトチップスは「コンソメ派」なんだと思う。濃い味がお好み。目玉焼きにはソースをかけちゃうし、カフェでは必ずエスプレッソを注文するよね。


ところが、たまたま口にしてしまったものが、「うすしお味」だったものだから、満足できなかったのだろう。つい「おまえのポテチは味が薄い」と、言ってしまうわけだ。


ぼくとしては、そんなことを言われても、「ふーん。」以外の言葉が見当たらない。味覚も好みも人それぞれあり、食べたいものを食べましょうの世界で、お口に合わなかったのねっていうだけの事である。


だけの事なんだけど、わざわざ主張するということは、なにかを示唆しているのかもしれない。


憶測になるのだけど、ある種の人は「深さ」を正義としている可能性が考えられる。なるほど、「深さ」というのは、人生経験や学びの奥行きだったり、感性の豊かさのことだろうか。たしかに、「深い」と味わいがありそうだ。


だけど、多くの場合「深さ」は苦労によって増していくのですよ。「深さ」は正義とか思っていると、「苦労は買ってでもしなさい!」みたいな本末転倒な発言をしてしまう。「苦労したけど、『深み』は増したから、ま、いっか、けっかおーらい!」があるべき態度であって、「深み」が目的ではないと思うのです。


たとえば「ワンワン!」って吠えてる犬ってさ、失礼だけど決して「深く」はないと思う。だけど、みんなを癒して、愛されてるわけで。その犬生って、言うほど悪いかな。

—————————————————————

どうして「浅い」を嫌う?


—————————————————————

ぼくは、「うすしお味」のような、たとえば「あたしんち」も読むし、「コンソメ味」のような、たとえばニーチェの本も読む。うすいのばかり食べていれば物足りなくなってくるし、濃いのを食べれば、もうしばらくいいわってなるからだ。

しかし、「コンソメ主義」を貫く人は、どうしても、「うすしお味」が許せないらしい。いったい、なぜか。


きっと「苦労をしてきた自分の人生」を強く肯定したいのだ。


さんざん苦労してきたけれど、なんの報いもないなんて、そんなの、受け入れられない、受け入れてたまるかって。自分の人生は正しかったんだ。そう思いたい。ぼくにも、そんな気持ちが少なからずある。それはそうだ。

人は、自分の人生を肯定したい。肯定するためには、戦わなければならない。そういう思想が人の心に備わっている気がする。


でも、すでに時代は令和。多様性ばんざい。グローバル化ばんざい。そろそろ、気づかなけばならない。

自分を肯定するのに、他人を否定する必要などないのだ。

「深い」っていいね。
苦労してきてよかったね。
「浅い」っていいね。
恵まれててよかったね。


これではだめですか?

—————————————————————

人生の「浅さ」について

—————————————————————

他人の人生の「深浅」などは計りようがないけれど、正直、ぼくの人生は「あっさい」と思っている。うすしお味は割としょっぱいし、微糖コーヒーは普通に甘いけれど、ぼくの「浅さ」はロングセラーのお菓子のパッケージにある「一口サイズで食べやすくなりました♪」くらいの真実味がある。


昨日まで認識できていたことが、今日はできていなかったりすることが多々ある。さっきまで考えていたことも、さっき学んだことも、時間の経過とともに消え去っていく。思い出も、残された時間も失っていくばかりで、今あるものを消費していくだけだ。


毎日しっかり注意していないと、月日はあっという間に過ぎ、じいさんになり、次の瞬間には死んでいるだろうな。


人生、なんて「浅い」んだろう。でも、人って(少なくともぼくは)そういうものだし、受け入れて、肯定するしかないのだと思う。

散歩が楽しいし、お風呂が気持ちいいし、写真に残して、本読んで、言葉を並べて。それだけの人生かもしれないけど、それだけの人生がすっごい幸せなのだ。


だから、「浅い」からなんだ、「深い」からなんだとか、それよりまずは一緒に笑おうよって思った。


この記事が参加している募集

最近の学び

¥1000につき1時間ぼくを労働から解放させる魔法です。