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なんもない日常にみる美しさがもたらす否定の否定。

“お寿司ただで食べれる券"で食欲を満たしたあとは、文字の香りに誘われて図書館で読欲どくよくを満たし、河辺で歩欲ほよくを満たした。イチョウの黄色が絶頂期をむかえ、道行く人の視線を集める一方で、若さを喪失したアイドルは、人知れず絶望の顔をしていた。


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欲を満たし、おうちに帰る。

一般的には、なんもない日常である。「日常」とはなんてつまらなそうな響きだろう。言葉のイリュージョンにかかりそうだが、実のところ、おもしろい。日常は非日常だよ。「ひ」が隠れているので、㊙︎日常とでも呼ぼうか。

別になんもない日常をなんとかして肯定しようって魂胆ではない。ただ、否定する理由はない。人間はなにかと「これはイイ」「これはダメ」と動画の指マークのようなことをするのだが、常々不思議に思う。


この世界は「わたし」のものだ。手に持っているそのスマホをわざわざ肯定しないのと同じように、この世界もそう。ただあるだけ。なぜあるか?知らない。なぜ生きるか?生きてるから。あるから使う。考えることは、使うか使わないかではなく、どう使うか。肯定は自動的に、絶対的に、大前提としてある。

日常は自然を示唆している。たとえば街の道路には、数多くの標識が複雑に点在していて、そこを起点に分岐して、車の列はまるで川のように流れていく。


そうだ、美しいのだ、自然は、この世界は。そこに「美しさ」を見たなら、どうして否定などできるのだろうか。


人にだって「美しさ」を見る。


牛丼屋に入り、迷わず大盛りを注文し、スマホから視線を離すことなく、ものの数分でどんぶりを身体に取り込んでいく。その間、顔は無表情である。達人の芸当としか言い様がない。


ひょっとしたら「彼」にとっては日常は退屈なのかもしれない。だけれど、退屈とか、絶望とか、悲哀があったって、あってこそ、世界は「美しい」のだ。だから、「救いたい」なんて思わない。居心地がいいならば、たとえそこが地獄だろうと、「彼」の居場所を否定しない。せいぜい鑑賞して、このような感想文を書かせてもらおう。


この世界に「美しくない」ものがあるとしたら、「自分」くらいなものだ。「自分」はただの鑑賞者。


「なんもない日常」とは、「世界」という、脆くて儚い作品を鑑賞するのにうってつけの最上の時間。美しかったなら、すべての否定を否定するだけの破壊力があるのだ。

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