見出し画像

夢見る少女じゃいられない

夢ある?って聞かれた時、こたえられなかった。
私にとってのそれは、何かを成し遂げたいとか、何者かになりたいとかじゃなくて、何年経っても友達と定期的に会える関係でいたいな、とか、
結婚してこどもが生まれても、たまには旦那さんと2人きりでお出かけしたり、お酒を飲みに行ったりしたいな、とか、こどもには自分が親にもらったもの以上の愛やらなんやらを与えたいな、
なんて、そんな小さな当たり前を積み重ねた日々を続けることで、夢というよりは目標のような、理想を思い描いた遠くない未来。そんな感じ。

大きな夢があればもっと色々頑張れたり、目標や職業が定まったりしたのかなあ。思えば、夢を抱いたことってあんまりないかもしれない。小中学校の時は、なんとなく、お兄ちゃんが薬剤師になるって言ってたことに影響されて、薬剤師ってなんかいいなあと思っていた。どうせ理系に進むなら理数科に入っといたら?と言われて、高校では理数科を選んだ。そのことに後悔はないけど、化学と数学、物理という所謂理系科目がとにかく苦手で、薬剤師なんて無理!ってそうそうに諦めた。高校生のとき、お菓子作りがとにかく好きで、文化祭でも文化祭委員を2年連続やって、お菓子の販売権を2年連続勝ち取って、予算内で簡単に早く、たくさん作れるお菓子を考えて、みんなで作る際の指揮をした。副担任のまちこちゃんは家庭科の先生で、優しくて天然ボケで可愛いくて、文化祭の時ももちろんすごく協力してくれたし、普段の授業も楽しかった。家庭科の教科書に載っている、栄養一覧とか、栄養素が身体にどう影響するのかみたいなところを読むのも好きで、まちこちゃんみたいな家庭科の先生になりたいって、初めてちゃんと思った。そこから詰めて考えて行くと、家庭科の先生というものは、衣食住に重きを置いた職業で、私は栄養学だとか、料理だとかは好きだけど、お裁縫とか暮らしみたいなものには興味がないかも。と、その時は思った。今になって考えると、衣食住に重きを置ける職業だなんて素敵すぎると思うけれど、当時は食にしか興味がなかったのも私らしい。そんなこんなで家庭科の先生はやめて、栄養士になろうかな、と思ったものの、それもラグビー部の監督(外部コーチで経営者をしている人)から、栄養士は需要が少なくて就職が大変だから看護師にすれば?なんて軽く言われたその一言で諦めて、就職が楽(なイメージがあった)看護師に逃げた。栄養の資格はユーキャンでも取ろうと思えば取れるし、料理は嫌でも毎日するだろう。看護師も小さい頃からおじいちゃんに言われて興味がなかったわけでもないし、文系からもいけるしお給料もいいし。なんて後付けはごろごろでてきた。

そんなこんなで看護学部という、もうあとは看護師になるしか道の残されない学部を受けることが決まった。理数科なのに相変わらず破滅的に理系科目ができなかった私は、苦手の克服よりも得意の強化に努め、英語の長文と小論文と面接が受験科目の推薦入試を受けることになった。倍率は大体6倍と言われて、怯えながら、受験前日、関西にある兄のアパートに向かった。前日にも関わらず、兄のバイト先のバーに連れて行かれ、兄によくしてくれている京大卒のマスターが、「倍率6倍ってことは、6人に1人しか受からないってこと。みんな頭良さそうに思えるけど、自分の周りにいる6人のうち5人が、自分と同じくらいのレベルか、それ以下だと思えばいい」と言われた。
目から鱗が落ちる思いだった。その一言で緊張がほぐれた。当日、チャリを2ケツして、兄が駅まで送ってくれた。途中、朝マックでハッシュポテトを食べた。試験の結果はあまり手応えを感じられなくて、むかつくくらいの青空を、絶対またここにきてやるからなと睨みつけた。合否の連絡は合格者にのみ、郵送で送りますだなんて、あまりにも世知辛い結果発表の仕様で、合格なら郵便が送られてくるはずのその日、家に帰るのが怖くて、いつもより遅めに帰宅したのに、手紙は届いていなかった。たまたま家にいたお父さんに、まあ仕方ないよってヘラヘラ笑って見せた時、合格通知が届いた。

受験後の青空

そんなこんなで看護学部に入ったわけだけど、うちの大学は幸い、保健師、養護教諭、助産師の資格が取れた。前者二つは取ったけど、助産は定員が決まっていて、実習や講義数も多くて、元々助産師を目指していたわけでもなかったから、取るのを諦めた。本当に諦めてばかりである。
人を救いたいなんていう崇高な志も、やりたい分野、やりたい事もないまま、なんとなく看護師になった。さて、部署希望ですが、実習で行った時のイメージから言うと、小児が楽しかったなあと思っていた。だけどコードブルード世代なので、なんとなく救急への憧れを捨てられないままだった。コードブルーみたいな大怪我や病気を見れる自信も、そこまでの精神力も、努力できるモチベーションも持ち合わせていないけど、でも、最初から小児に行くと成人を見れなくなるし、最初に救急に行けばそのあとどこにでも行けると思うから。っていう気持ちで第一希望に救急、第二希望に小児を書いた。

入職の日配られた紙には、救急外来看護課と書かれていて、そこから今日に至るまで、救急外来看護課所属なわけですが、長くなってしまうので続きはまた今度。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?