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デイビッド・ヒューム著『人間本性論』ついての断章 ver 1.0

§1.すべての学は人間の本性をその源泉としている。 その本性とは、あらゆる人間の器官に備わっている自然的な能力や機能である。ヒュームは自身の主著である『人間本性論』の序文において、「人間学が諸学にとって唯一の堅固な基盤である。それと同じように、この人間学そのものに与え得る唯一の堅固な基盤は、経験と観察に置かなければならない。」と述べている。その経験と観察は、見ること・聞くこと・触ること・嗅ぐこと・味わうことなどのように受容器ごとに類別されて、それが解剖学・生理学・生物学などの自然科学的な知見に基づいて考察されるわけではない。むしろ、そのような感覚−刺激の多様は「知覚」の統一へと還元されて、形而上学的扱いが可能な概念へ再構築される。だから、自然科学のように実験によって、すべてを明らかにしようとするヒュームの企ては、形而上学的論究とこの点においてはそう違わないことになる。その上、この実験本位の姿勢は、後に詳しく批判することになる時間・空間の無限分割可能性についての彼の考察において、数学的な可能性を自然的な事実性と混同した誤謬に陥らせてしまった。ヒュームは、数学的な仮定を実際の事物に対する知覚に基づいた実験によって反駁しようとしたのだ。ヒュームは「ディビッド・ヒューム」という固有名詞抜きでその哲学的成果が考察される最後の哲学者であった。そのイギリス経験論(としてロックやバークリーなどとともに括られるが、その枠に留まらない豊富な業績)は、論理実証主義やいわゆる分析哲学へと継承された。本稿は(バードランド・ラッセルをして、未だ決定的な反駁がなされていないという)因果性への懐疑なども射程に入れたいくつかの断片の束である。

§2.ヒュームは彼の哲学的考察を人間の知性について検討することから始めている。人間の知識は多様な「観念」が結合することによって成り立っている。そして、その「観念」は、現前しているときの生々しさを失った「印象」である。まず、ヒュームはこれらの「観念」と「印象」という2種類に「知覚」を分けた。分けたとは言っても、それらは漸次的な連続性を保持したままであり、スペクトルを成している。したがって、1と0ような相互的に排他し合う二値性や、精神と身体の一方が他方に対して優越するデカルト的な二元論の枠組みでは捉えきれない。しかし、その論述の実際においては、形而上学における有無や善悪、真偽と同様の扱いを受けている箇所も散見される。ともあれ、この前提がヒュームの哲学における出立点であり、彼がよって経つ基盤なのである。

§3.ヒュームの哲学における「経験」や「知覚」は、それに先立つ源泉や要素がなく、それ以上は溯及不可能であるかのようにに思える。しかし、例えば「私はリンゴを食べた」という経験は、赤く一部が凹んだ円を知覚する視覚、甘酸っぱさを知覚する味覚と嗅覚、固く丸くひんやりした歪な球を知覚する触覚、噛じったときに発せられるシャクリという音を知覚する聴覚に分解することができる。そして、これらの知覚が束となって「私はリンゴを食べた」という一つの経験をなしているのだ。ところで、それらの分解された知覚は、何によって結合していたのだろうか?それらの知覚を結合する連続性そのものは知覚することはできない。そこには個々の受容器の空間的な、またそれぞれの刺激の時間的な近接関係や、 トークンとしてのそれらをタイプ(あるいは、観念と観念を結合した知識) として「私−リンゴ−食べた」という記号の結合に還元される現在の印象と過去の記憶との類似関係というようなヒュームが自然的関係と呼ぶ関係や、かじられたリンゴを元の完全なリンゴの匂いや味などの恒常的連接に基づいた差異性と同一性の関係、1個として測られる(がゆえに、 食べる前リンゴの個数も半分まで食べたリンゴの個数も同じと見做されるのだ)数量の単位などのヒュームが哲学的関係と呼ぶ関係を見出すことはできる。ヒュームは結合−関係を観念同士にしか見出さなかったが、以上の分析からは、印象においても結合−関係は見出される。というよりも、むしろこのような「知覚の束」こそが対象の「印象」の本性なのだ。

§4.同一というには長いように思われ、かつ別異というには短いように思われるような微妙な時間的−空間的な距離がある印象Aと印象Bを仮定してみよう。印象AとBは別々の命題(観念連合)として、完結した 2 つの記述として、表現される。そして、それらの結合は2つの文を繋ぐ接続詞によって表現される傾向があるとしよう。それらを隔てると同時に結びつけてもいる(先にも述べた)空間的−時間的な微妙な間隔には、印象として知覚することは不可能だが、観念としては想定することができる(そのような観念はヒュームが否定したものだが)関係がある。そのような関係を包括したものを我々は一般的に因果関係と呼んでいるのではないだろうか?もしそうであれば、「一つの経験」と見なされている知覚における(それが言表されるか否かは問わずに潜在的なものも含めれば)関係のほとんどは、その印象と観念(とその移行)に影響した思考の習慣(命題における「文法規則」と「要素命題」の使用の習慣など)の産物と言えるのではないか?それならば、関係による連続性も統一性も同一性ですらも、因果関係の一種に還元することが可能ではないか。それがどれだけ堅固に結びつき、隙間なくピッタリ張り付いているように思えても、それは距離が限りなく近い「原因と結果」の関係に過ぎない(そして、ヒュームに従えば、それは単なる習慣に還元されてしまう)。そして、これを反転させれば、どれだけ異なっていてバラバラな断片同士だと思えても、それらには距離が限りなく遠い「原因と結果」の関係があると言える。 このようにして、我々はヒュームの因果関係に対する徹底的な懷疑を逆立ちさせることで、彼の因果性への懐疑から奇妙な結論を導き出してしまった。

§5.逆立ちしたヒュームの思索が行く先をもうしばらく観察しよう。直接それ自体を知覚できない結合−関係は、刺激する外対象と感覚する受容器との関係において既に生じている隙間である。ヒュームの言うように人間の本性とは知覚に求められるものであり、それがあらゆる学の基盤の基盤だとすれば、彼が傲うところの自然科学も、ヒュ一ムにあってもそのアプリオリ性を認めざるを得なかった算数学や幾何学の確実性も、すべて(習慣に還元 可能な)因果関係によって成り立っているということになる。そのとき、唯一切り離せない関係、不即不離だと言いうる関係は、「知覚」の原理が「因果性」なしで説明することができず、「因果性」は習慣化した印象に由 来しているというよりも「知覚」それ自体の働きに由来していると言ったほうが正確であるという両者の依存的関係のみである。ここから直ちに導かれる系として、「知覚」や「印象」、「観念」という観念それ自体は知覚不可能であり、いかなる特定の印象にも由来しない。これらが具体的な多くの知覚を抽象化したものだと言うためには、その原理として「因果性」を単なる習慣の産物以上のすべての基盤の基盤を成り立たせる特別な関係としての特権的な地位を与えなければならない。

§6.ヒュームはそれ自体やその起源を直接知覚できないものの実在性に懐疑を向けた。それは因果性という哲学的関係にも向けられた。しかし、例えばオセロは、具体的な配列と操作のみが知覚可能であって、そのルールは知覚の外部にある。だが、それは習慣に還元されない強さで知覚できる領域を支配している。

§7.ヒュームは「人間の心に現れる全ての知覚」に哲学 の源泉を求めた上で、知覚する私は知覚する私自身を知覚できない、知覚の束と見なした。だが、この結論が前提する「人間の心」は「(普遍化した)私」であり、そこにすべての知覚が現れるなら、それは知覚の束と同じなので、この論証は循環している。

§8.ヒュームの時間と空間の無限分割可能性に関する考察は、それが特定の操作の反復を前提し、かつその操作は原理上無限回の反復適用が可能であるような高度に抽象的な概念における数学的・論理的な可能性を、 経験的な感覚によって観察された事実に基づく実証が不可能であるという想定によって否定している。 ここにはいくつかの混同や混乱が見られるが、最も有名であると共に致命的な自己矛盾に陥っているのは、 いわゆる自然の斉一性への懐疑との不整合だろう。 つまり、「(暗黙の前提:これまでにその死が観 察・記録された)すべての人間は可死的である。」という命題は、膨大な数によってその「蓋然性」の高さは十分に認められる。しかし、そうであっても有限回の観察された事実から帰納した推論に基づいているため、「(数学的・論理的)な必然性」にあるような確実性は認められない。実験をする人間の寿命の長さを仮に操作的に定義されるものだと見做しても、それが定義可能であることを含意している以上、人間の寿命は無限ではありえない。その定義となる上限があるという定義それ自体は操作的に定義されていないが、もしそれが操作的に定義可能ならば、それが定義するすべてはその上限となる不定の値(しかし、それはこれ以上の値が算出されることはないだろうという暗黙の想定、あるいは満点という規定された上限によって成り立っている。)の有限性を前提している。「すべての人間は可死的である」は、それまでの(膨大ではあるが)有限回の観察・記録からの帰納的推論に基づいている。それゆえ、前述の通り蓋然的な命題に過ぎない。しかし、「帰納的推論は蓋然性しか導くことができない。」ということそれ自体は、論理的・数学的な必然性を持つかのように思われる。 しかし、それすらも、「『人間は可死的である。』に由来する有限性によって、人間は無限回の実験を行うことができない。」からであり、高い蓋然性を持つが、数学的・論理的な必然性は持たない命題に基づいている。だから結局のところ帰納的推論は数学的・論理的な必然性を導き出すことはできない(そしてそのことすら数学的・論理的な必然性を持つ命題としては認められない)のである。このような立ち入った考察に迷い込まなくても、可想的にその操作は無限回の反復適用を行うことが可能であるという権利上の問題を、その操作手となる人間が生物として迎える死によってもたらされる有限性という事実上の問題と混同している。というカントが法廷に提出したそれと類似した問題であることを看破すれば、十分な反駁になるだろう。

§9.センスデータの有限性は、その観察や実験による再現が数学的・論理的に厳密な意味で無限回の再現可能性を持つものである。それゆえ、有限回の観察・実験をどれだけ繰り返しても、それがもし権利上は必然性を持ちうると前提されているならば、実験を繰り返す回数に上限を設ける〈べき〉ではなく、それが仮に何度繰り返しても同じ事実が再現される数学的・論理的な厳密性を持つ必然性を持っていた(自然科学者の間で共通了解となっている自然法則がみなそうであると仮定してみよう。)としても、その必然性を実証するのは無限回目の実験が同時に、その実験の反復可能な回数の上限、つまり有限回目の実験であるという矛盾においてのみである。

§10.たった一つの矛盾した観察・実験データは、その観察・実験を行うに当たって仮定されていた事象の無限回の再現不可能性を示す。それによって、その仮定された事象の必然性が偶然であることの必然性は、その仮定された事象の必然性を必然的には帰結できない帰納的推論が導き出す(たった一つの反例によって、それまでのすべての事実では導くことができなかった正の必然性に対して)負の必然性だと呼ぶこともできるだろう。

§11.無限回の再現可能性を仮定した実験の有限回の(そして、できるだけ無限回に近似した)多くの再現によって1つの規則を結論するという推論の形式のみによって、それが有限の確実性である蓋然性しか導くことができない。と必然的に結論することはできない。なぜなら、何回目の観察・実験であっても、それらは〈すべての〉センスデータである。そこから導かれた結論とはどの支流から出発してもすべて一本の広い河川へと収束するという比喩で表される。その俯瞰的な視点では、いくつかの仮定それ自身と他の諸仮定との無矛盾と、必然性を保証された規則で構成された一つの体系から一回きりの妥当な推論によって枝葉に分かれ伸ばし多くの結論を結実する演繹的推論とピッタリ重なり合う静的構造を持っていて、(鳥瞰的な視座から見えるものに限定されてはいるものの)異なっているのはその流れの向きだけだからだ。両者は、それ自身はそれ自身の例外(演繹的推論自身の必然性は演繹的推論ではなく、その推論形式でこれまで一度も非妥当であったことがない事実の帰納的推論によって、帰納的推論が必然性を導き出すことができないことは、それまでのすべての帰納的推論が必然性を導き出すことができなかったという帰納的推論によって導き出される必然性であるというような)という相対主義的のパラドックスのような自己矛盾を内包する点も共通している。

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