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大人になるまでの障壁③

これまで記してきたように、教育の機会を与え、選択肢を増やす試みをすることや生活の支援をするだけではなかなかこの複雑深刻な課題の解決はできません。

まとめると、この世に生まれてから大人になるまでには100にも1000にもなる課題にぶち当たるわけで、これは何も一部の貧困層にのみ訪れることではなく、例えば世帯年収が2000万あってワインを飲みながら将来の選択肢を考える家庭にも訪れ得るものなのです。ごくごく普通と言える、もしくは平均よりも質の高い教育を提供できる家庭にあったとしても、それが全く違う角度から失われることもあります。

つまり、必ずしも地域格差と呼ばれるうちの都市部に住んでいるから、はたまた必ずしも経済格差と呼ばれるうちの高所得者だから、子どもが大人になるまでに貧困にならないとは言えないですし、機会に恵まれないとは言えないですし、誰しもが他人事ではないのだと思います。

裏を返せば、私たちもインドや日本で支援をするにあたって、その支援という概念を単なる金銭的な援助だけに終わらせてしまったり、はたまた一時的な支援に留めてしまっては、課題が課題のまま残ってしまうことがあるのです。それと同時に、こうした事実を一人でも多くの人が正しい判断基準を持って理解することが大事でもあるのです。ここまでの中でむしろ子どもであればよく分かることですが、育つ環境、それは家族や親をはじめとする人、場所、お金やモノなどのすべてを意味しますが、こうした環境の支えがあるからこそであることを知り、理解することで学びを深め、自分自身の人生の方向性を決める一つの材料にしてもらいたいなとも勝手ながら思うわけです。

大人になるまでの子どもたちとの関わり方

経済的貧困、文化的貧困から考えるとそのアプローチはこれらを包括的に実践していくことが望ましい。そんなことは分かってはいるけれども、体現の仕方は様々で、全くもって簡単なことではないです。

ある意味で、経済的な貧困だけに注力すれば良いのであれば簡単です。ビル&メリンダ財団を筆頭に世界にはとんでもない規模の資金を持って貧困や医療などの課題を解決しようとしています。日本においてもベストセラーとなったFactfullnessで紹介されている通り、世界的にその実態というのは日々良化していっているわけで、これはある側面においては疑いようのない事実なのです。また、教育という観点においても、学力と定義される領域のみに注力していればこれもまた幾ばくか簡単なのだと思います。

貧困×教育というテーマが絡むと、そこにはその他の不安因子が無数に増え、学校教育というフェーズまでにある様々な課題が立ちはだかり、また、学校教育フェーズに入っても同様。それだけでなく、貧困家庭故の家庭環境やそこから施される教育やしつけもまた同様です。

大人たちはそんな中で、子どもたちにとって温かいと思える、可能性を広げられる環境づくりや接し方をしていくのが前提として望ましいでしょうし、救いの手を差し伸べられるコミュニティのあり方を再考することも至極大事だと思います。ただ、大人だって人間であり、悩みもあればどうしようもなく追い詰められることもあります。現に、私たちも親に対しての経済的、時には心理的な支援をすることもあります。

大人たちはどう変われるのか

誰が悪いか論をしても無意味ですが、その原因は子どもたち本人では全くないです。かと言って大人全てが悪いというわけでないです。ただ多くの大人は自分で判断し、何か行動に移すことができます。一方で、教育という話に限らず、大人は子どもたちの多くの可能性を奪います。親でさえ、教師でさえ、です。できる環境にある人は、できることをする、単純ながら難しい話でもありますがそれに尽きると思います。

血を吐くまで勉強した頭のいい大人たちがこぞって自分たちの私腹を肥やすためにその頭脳をフル回転させ、時には部分最適に全力を投じ、時には何となく聞こえのいい建前とともに金儲けに興じ、いざとなれば保身に走る。もちろん、みんながそうだと言ってるわけでは全くないです。ただこれもまた、仏教的に言えば人の業なのだと思います。本当の聖人君子たる人などというのは、この世にいないとまでは言わないものの、ごくごく少数であり、その存在自体が稀有なのです。だからこそ、それを単純化し、急に第三者かのように「悪い」と批判するだけなら誰にでもできますし、むしろただの批判者である以上無責任な傍観者に他ならないとも思います。

それでもなお、これからも社会は変化していき、大人が子どもに対して負う社会的な責任というのは大きくなるか小さくなるかは分かりませんが、未来永劫あり続けます。これだけは変わらないでしょうね。そうすると、大人が変わるには?と考えると、大人になってからさまざまな外部環境による影響もあれば、ふとしたことから変わることもあるかもしれませんが、グルグルと循環している仕組みの中でどこから変えるかという議論にもなるはずです。

圧倒的多数派である大人がおおよそ20年以上、自分自身というキャラクターと向き合ってくるとそこから変わるというのは、これもまた稀有で困難なのが現実だと思います。歳をとるほど頑固になる、凝り固まる、と揶揄されることもありますが、実際問題その通りなわけです。ともすれば、子どもであるうちに変わる•変えていくことが全体を変えていく一つの手段としては考えられます。だからこそ、やはり基礎教育はいろいろな意味で重要な位置づけを担っているのでしょう。

とはいえ、大人が変わることが不可能だということでもないです。現に、大人になることで考えがより成熟し、「社会のため」「誰かのため」という考えが育まれることもあります。私たちができることの一つとして、数ある課題を一つでも認知していただき、そうした些細なきっかけを与えることすら意義のあることなのだと信じています。そして、大人が真剣に、意見の相違はあったとしても社会のこうした課題を一つでも少なくすることに心血注ぐことができれば、明日がほんの少しだけ明るくなるはずです。

あるべき姿に求められる支援とは

少なくとも私たちは、理想の国家論と教育論を学者のような立場で提言することがゴールではなく、子どもたちを一人でも多くIITや東大、ハーバードやオックスフォードに進学させることでもなく、GoogleやApple、総合商社やコンサルファームに就職する道筋を作ることでもなく、金銭的に裕福にすることでもないわけです。

地球上から
”ここに産まれたから”
”ここにいるから”
という言葉を無くし
誰もが明日を夢見て眠ることができる
世界を創る

決して変えることのできない場所や家柄などの生まれに左右されることなく、暴力や飢餓に怯えずに生きていくこと、1人の人間として、当たり前のこととして人生の選択肢があり、選べる道筋を用意することです。その支援をし、時には金銭面で、時には精神面で、伴走していくことなのだと思います。

それと同時に、これまでご紹介した通り課題は複雑かつ広範にわたるために、こんな壮大なミッションを少数精鋭で、いや精鋭でないのならなおのこと実現するなど無理な話なのです。だからこそ、社会を変えるために社会に支えてもらうことが必要ですし、大人たちに、時には子たちに私たち自身も支えられなければなりません。それに、単に私たちだけがそう考え活動していても、大した変化は期待できません。社会全体が、多くの大人たちが少しずつ知ることから始めるために、知ってもらうことを始めることが求められるはずです。

私たちのような存在はいない方がいい

NPOにしても、公益財団のような存在にしても、何か新たなものを生み出すことに徹しているのであればその限りではありませんが、世の中にある何かマイナス地点にあるものをゼロに戻そうとしている団体、それをほんの少しでもプラスに持って行こうとしている団体などというのはその存在が減っていくに越したことはないと思っています。それは私たち結び手も同じであり、「そんな支援もう必要ない」「十分なラインにあるからこれ以上は過剰支援だ」となり、存在が否定されることはつまりは良いことなのです。

世界の調和やそれぞれの国家運営、政治行政が万人が賛成としなくても、取り残される子どもたちや目の前で命を失いそうになっている人たちが社会の様々なセーフティネットによって守られるような、そんな理想の社会が創られるのであればそれで良いのです。しかしながら、歴史上そうした成功事例はなく、恐らくこれからも不完全な状態を打破することなどは出来ないのです。

ただ、そこで悲観的になるのではなく、「あと1人、あともう1人」と選択肢を持つ人、夢を持つ人、幸せを感じる人をどのように増やすか?を私たちはもちろん、一人一人の社会の一員が考えるようになることでほんの少し昨日より良くなるという未来が想像できるのです。そういう意味では、その裏返しとして社会活動や慈善活動と呼ばれる活動がポジティブな意味で減っていくことを見ることも私たちの願いの一つなのかも知れません。

Written by Tatsuya

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