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線が引かれている

例えば能力の違い、派閥、町の区画まで
見えない境界がある。
事故が起こる前と起きた後のように
今いる世界と次の瞬間いる世界は違って
しまうかもしれない。
意識をしないと案外簡単に境界を越えて
しまう。少なくとも私はそう思っている。

越えるべき境界と越えてはならない境界。
よく“一線を越えてはならない”、などという
けれど、注意しないといけない線はこの世に
張り巡らされている。
簡単に踵を返して元の世界に帰れたなら
いいのだけれど、そうもいかないことは
ある。

元の世界へ戻れることもある。
しかし、それは厳密には元の世界とは
ならない。違う世界にいってしまった時点で
二つの世界を比べる視点が生まれる。
元の世界ではなく、あらたに二つの世界が
自分の中に存在するのだ。

忘れることで境界を越えたことをなかった
ことに出来る可能性はある。
しかし実際は自分一人が記憶を失えばよい
というわけでもなく、おそらくそのことに
関わったすべての人の記憶を消滅させなければ
ならないことの方が多いのではないだろうか。

越えるべき境界とは自身が成長することに
よって生じるものだ。
小学校から中学、高校と世界が変化する。
専門性を身に付けるためにその先へ進み
やがて社会に出る時、大きな境界を越える。

友人から恋人、家族へと関係性が移り変わる
際も境界をひとつずつ越えてゆく。
難しいのは友人に許された範囲と恋人との
それと基準の差が人によって違うことにある。
感覚の違いのすり合わせというか、確認は
とても大切だ。

しかしながら共通するのは線を越えることは
大きなことだということにある。
何かが起きること、生活環境が変わること、
関係性が変わること、移動すること、自身の
能力が向上すること、考え方が変わること。
もちろん人によっては、そんなことをいちいち
気にしない。自分は自分だ、と主張する人も
いるかもしれないが、私は怖いというか
衝撃が強い。
ネガティブな意味合いではなかったとしても
その線を越えることは私に大きな刺激を
もたらす。それは私にとって「痛み」に近い。
“痛みを感じたくない“
そう思ってしまうのだ。


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