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Return to Sender vol.14 | Kesästä Kesään

「夏」から、何を想起するでしょうか。焼け付く日射し、草の香り、夏休みの記憶……。今年の夏は、例年と違う気持ちを抱えている方も多いかもしれません。
エディターのミズモトアキラさんとMustakivi・黒川による連載Return to Sender。今回のテーマは、石本藤雄さんがマリメッコ社で手がけたテキスタイル「KESÄSTÄ KESÄÄN(ケサスタ ケサーン/夏から夏へ)」です。草をモチーフに、夏からめぐる四季を表現したデザインのエピソードを黒川がインタビュー。
愛媛といえば、西日本豪雨災害の傷跡も記憶に残るところです。それを見たミズモトさんの中にある夏、そして、黒川の次の夏への願いもあわせてご覧ください。

Kesästä Kesään

Text by Akira Mizumoto

新しい夏 串田孫一

私にとってこの林の緑ははじめてである。
私には年毎の夏が新しく珍しく、驚きに充ちたものであるようにと願う心がある。そしてそれは私の生命に歌を忘れさせないための手段でもあるのだが……。
時たま涼しい風も吹いては来るが、それが止まると緑の熱熅が私を包み、過去への誘いとなる。
立ちどまってあたりを見廻していると、近くで油蝉が鳴き出す。その声は私を痛烈に非難しているように胸にささる。君には行方が分からなくなったまま、もう四十年も探そうとしないでいる友達がいたことを、何故忘れようとばかりしているのか。
だからこそ、私には新しい夏が必要なのだ。

石本さんの「Kesästä Kesään(夏から夏へ)」というタイトルにインスパイアされて、上に引用したのは、日本の山岳や自然をこよなく愛し、膨大な数の著作として残した詩人/画家/思想家/随筆家の串田孫一の散文詩だ。

この「新しい夏」は、1983年に出版された『四季の旋律』(PHP出版)という彼の著作に収められている。あとがきによれば、編集部から写真が毎月届き、その写真から受けたインスピレーションをもとに書かれたそうだ。きっとどこかの月刊誌に連載していたエッセイなのだろう。

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串田の文章と一緒に掲載されている写真には、白樺の碧々とした葉の隙間から、幹に止まった一匹の蝉が写っている。

夏の到来に大きな歓びを感じながら、串田はこの季節が巡ってくるたびに〈行方が分からなくなったまま、四十年も探そうとしないでいる友達〉を暗い気持ちで思い出さずにはいられなかった。ひょっとしたらその友達は夏山で遭難して、消息を経った人かもしれない。あるいは先の戦争で死んだ友達なのかもしれない。いずれにせよ、詳細ははっきりとわからない。

ただ、いつかその友達を見つけてやりたい、いつの日か、いつの日か……と願いながら、串田はそれを果たせずにいた。

そして、いつのまにか彼は60代後半になっていた。思いを果たすために自分に残された時間を串田は心の中で数えていた。いっそ長年、自分を縛ってきた「枷」からそろそろ解放されてもいいのではないか、すべて忘れてしまえれば、と夏の森の中で逡巡している───。


ここ数年、夏になると経験したことがないくらい巨大な災害が、次々と発生している。とくに〈線状降水帯〉と呼ばれる気象現象は厄介で、前触れもなく、狭いエリアに雨がまとまって降り、大きな河川が一瞬で溢れたり、土石流が起きるなど、逃げる間もなく家々が壊滅的に破壊されてしまう。

ぼくが暮らし、またムスタキビの本拠地でもある愛媛でも、2018年7月に西日本豪雨と呼ばれる災害が発生した。ぼくの親類の家も、近くの川が氾濫し、床上まで水に浸かった。住人の命に別状はなかったけれど、腰くらいまでの高さにあった家財道具がすべてダメになった。

たんすの引き出しが濡れることで膨張し、どれだけ引っ張っても開かなくなり、中にしまっていた大事な書類や印鑑が取り出せなくなったり、押し入れに置いてあった新品の紙おむつが水を吸い、ビニールに入ったままパンパンに膨れ上がり、大の男が抱えても運べないくらいの重さになったり、と、どんな優秀なシナリオライターでも想像できないような、とても現実的で、悲惨な状況をたくさん目の当たりにした。

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そういえば先日、もっとも被害がすさまじかった野村町というところに雑誌の取材で行った。その取材は災害とまったく関係なかったのだが、訪れたのは水害以来だったこともあって、町の中をすこし散策してみた。

3年という時間の経過の中で、災害の傷跡はだいぶ目立たなくなっていたけれど、シャッターが閉じられたままの店舗や、建物を取り壊したまま、なにひとつ再建できていない更地もたくさんあって、心が傷んだ。


子供の頃は夏が来るのがとにかく待ち遠しかった。夏休み直前には自分の誕生日もあるし、いざ休みに入れば、プールや虫取りや家族旅行など、楽しみな行事が目白押しだったからだ。もちろんひと月以上、学校に行かずにすむというのが最高だった。

それが今ではまったく逆で、夏の気配が忍び寄ると、なんとなく気が滅入ってくる。大人になって、仲の良い友達が日本全国にできたこともあり、遠くの町でそういった災害が起きても、ついつい彼らの無事を祈り、気を揉んでしまう。

おまけに今年の夏は悪い夢としか思えない巨大なスポーツイヴェントが東京で開かれようとしている(この文章が読まれる時期を考慮すれば〈開かれた〉と書くべきかもしれない)。今年の夏から来年の夏までのあいだに、いったいどんなことが起きるのか。何ひとつ具体的に予想もできないし、まったく良いイメージが浮かばない。

窓の外からはいつもの夏と同様に、蝉の声が聞こえてくる。いつかぼくらは〈夏から夏へ〉の移り変わりを、子供のときのように待ち遠しく感じることができるだろうか。今、鳴いている蝉たちは来年の夏にはこの世にいない。おまえらはちゃんと生きているのか、かぎられた命の時間を大切に使っているか、と責め立てるように彼らはきょうも鳴いている。


あとがき:

Text by Eisaku Kurokawa (Mustakivi)

ミズモトさんとの連載企画・第14弾のテーマとなったのは、石本藤雄さんによって1991年にデザインされ、マリメッコ社からリリースされた《ケサスタ ケサーン》(KESÄSTÄ KESÄÄN/夏から夏へ)だった。確認できているカラーバリエーションは3種。

図2

石本さんの個展でも多く登場するテキスタイルなので、以前から気になっていたテキスタイルだったが、インタビューさせてもらうのは今回が初めてだった。

今回も初めて把握したことが多々あったので、幾つか記録しておきたいと思う。

まず、《ケサスタ ケサーン》(KESÄSTÄ KESÄÄN/夏から夏へ)というタイトルについては、書籍『石本藤雄の布と陶』の一文を引用させて頂きたい。

春はやわらかな日に照らされ、夏は夕立に打たれ、秋はうっすらと霜がかかり、冬は雪に埋もれ……。長い冬がやがて去り、雪が解けて、再び新芽がそっと顔をのぞかせる春が到来する。この作品では、草をモチーフに、移ろいゆく四季、そして季節が繰り返される様子がモノトーンで描かれている。Kesästä kesäänとは日本語で、夏から夏へという意味を表す。新学期や新生活など、フィンランド人にとって夏は始まりの季節であることから、このタイトルがつけられた。

石本さんからもタイトルについては同様の説明を伺い、加えてこのテキスタイルをデザインしたきっかけや、デザインで表現した想いについても語ってくれた。

「このテキスタイルをデザインしたのは、フィンランドの独立75周年を記念したイベント向けのデザインを依頼されたから。1991年頃にフィンランド・デザイン協会が10人のデザイナーに独立をテーマにした作品(テキスタイル以外も含む)を依頼し、僕もその一人として参加した。僕はフィンランド人ではないんだけどね…。」
この4つのシーンに分かれた草のデザインは、四季でもあり、フィンランドの歴史的な時間の移ろいを表したものでもある。フィンランドは独立までの長い間、ロシアやスウェーデンの占領下にあった。そういった厳しい時代を“雪の下にある草”や“嵐で揺さぶられる草”として表現した。」

石本さん自身の長年の生活から、フィンランドならではの四季の移ろいのみならず、同国の歴史や、様々な人々との交流から国民性を感じ、敬意をもっていたからこそ生み出せたデザインなのだと思う。僕もフィンランドに住んでいた時に、「フィンランド人にはSISU(フィンランドの人々に古くから受け継がれる特別な精神力=フィンランド魂)があるんだよ…」とか、「フィンランド人は長く暗い冬にも耐えられる…」といった話を聞く機会が結構な頻度であった。
人に優しく、温かい国民性のバックラウンドをこのテキスタイルデザインが表していると捉えると、より深い味わいを感じる。

1992年に会場で展示した様子についても、石本さんは教えてくれた。

「会場に展示した《ケサスタ ケサーン》は、布ではなく、わざわざ日本から「蚊帳(かや)」を送ってもらい、マリメッコでプリントした。それを会場に季節の順番に並べて展示した。」

白の透けた素材にプリントして展示したと聞いた。麻とは違う、粗目の網目にプリントしたかったそうだ。

あと、今回初めて「どの柄がどの季節を表すのか?」も伺えた。

図3

夏には嵐(ストーム)があるし、秋には霜が降り、冬には雪が降る様を表現したという解説を聞き、今まで見えていなかった”景色”を想像した。
また、それぞれの季節で描かれている“草”をどのように描いたのか?については、石本さんならではの“カミワザ”に驚かされた。

「“夏”の嵐で草が揺れている様子や、“冬”の雪や暗闇の表現は、コピー機(当時石本さんはゼロックスと呼んでいた)で印刷する際、スキャナーが読み取る動きに合わせて、手で原稿を動かして生まれた偶然のもの。」

日本の“琳派”を彷彿とさせる“”のデザインは、スキャナーが読み取れなかった“余白”ということになる。

毎度ながら石本さんの発想力x構成力=情報伝達力には驚かせるし、どこかに再現できない“偶然性(自然の様)”を残す(MIXする)ところが、デザインが時代をこえて愛され続けている重要な要素であることを、話を伺う度に感じる。

《ケサスタ ケサーン》は、石本さんの日本での初個展(2005年3月「やきもの展」/TRY)でも会場に使われていたし、直近の個展(2019年6月「マリメッコの花から陶の実へ」/Spiral)でも使用されていた。それぞれの時代でも全く古さを感じさせない。石本さんの”季節”は不変であり、動き続けてもいる

図4

いつの時代も「春夏秋冬」はつきものだし、世の中には大小さまざまな“波”(バイオリズム)があることは、生命体である以上”抗えない原理であり真理”なのだと思う。また、“波”は避けられないけど、“運”という言葉で終わらせてはいけないとは思う。

人生は”波”であるとすると、”そもそも安定するものではない”ともいえるから、安定欲求や承認欲求を自分の判断基準の最上位に持ってきてしまうとキツイ。自分自身、偉そうに言えることなんてないけれど”自分でコントロールできる範囲のこと”にまずは集中して、成長欲求を上位に置く意識は持ちたいとは思う。他責的な人やメディアからは距離をおきたい。

《ケサスタ ケサーン》,From Summer to Summer, From Tokyo to Paris...。 何はともあれ、世の中が明るい”次の夏”へ向かうことを願います。

以上、《ケサスタ ケサーン》(KESÄSTÄ KESÄÄN/夏から夏へ)のご紹介でした。石本さんのテキスタイルデザインから始まる物語り。今月は如何でしたでしょうか?Return to Senderが様々なモノゴトを”Think twice”し、日常にころがっている幸せを”Feel twice”することに繋がれば幸いです。

最後までお読みいただきありがとうございました。



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