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書評:どこまでも詩|笹井宏之『ひとさらい』書肆侃侃房/2011.

歌人・笹井宏之の第一歌集。笹井宏之は、1982年佐賀県生まれ。2005年に、連作『数えてゆけば会えます』で第4回歌葉新人賞受賞。歌集『ひとさらい』をBook Parkから刊行した翌年の2009年1月、26歳の若さで死去。

つまり、歌人・笹井宏之の生前に唯一出版された歌集ということになる。

木下龍也の『天才による凡人のための短歌教室』でもその名があげられ、書肆侃侃房主催の短歌の賞の名にも冠されている笹井宏之。彼の歌集をぜひ読んでみたく、手にとってみた。

読んでみての感想を一言で書くとすれば、こうだ。

「手が届かないけどわかる」あるいは「わかるけど手が届かない」

いまの私は、他の歌人の歌集を読むときには、純粋な読者であると同時に、頭のどこかで「この歌人の短歌を自分の作歌に活かせないだろうか」という思考が走っている。もっといえば「真似できるところはないだろうか」と考えている。

しかし、『ひとさらい』に収録されている短歌は、そのどれも、真似できる気がしないのだ。「手が届かない」そう感じてしまう。

「手の届かなさ」の具体例を上げていくと、まずは「なんでその2つ(以上)の単語がひとつの短歌の中に共存できるんだ?」と不思議でならないアクロバティックなまでの組み合わせだ。例えば、独特の寂寥感のあるこの歌。

クレーンの操縦席でいっせいに息を引き取る線香花火

あえて想像すれば、線香花火が消えないように息を殺して静止させ続ける手(たち)の姿にクレーンのアームを見出したのかも知れない。知れないが、じゃあなんで、例えばクレーンのアームの先のバケットやフックではなく、操縦席に線香花火を持ってこれるのか、視点を持ってこれるのか。私には100時間考え尽くしてもたどり着ける気がしない。もちろん、「いっせいに」の「い」と「息を引き取る」の「い」の頭韻が、音としての気持ち良さを生んでることは言うまでもない。

あるいは、時空間が巨視だか微視なんだかわからなくてぐんにゃりするこの歌。

シャッターを切らないほうの手で受ける白亜紀からの二塁牽制

これもあえて想像すれば、野球のボールすなわち白球からの白亜紀という連想なのかも知れないし、現代から遡ること数億年という白亜紀と、一瞬を象徴するシャッターと共存させることで、時間の長短の対比させているのかも知れない。などと、考えるわけだが、なんでこんな組み合わせを思いつくのか、本当にわからない。

別に、デペイズマン的な突拍子もない単語の組み合わせばかりではない。「なぜそれほどまでに平易な言葉で思いもよらないドラマが描けるのか?」と思わせるアクロバティックさ。例えば、帯にも記されている、どこか寂しいこの歌。

風という名前をつけてあげました それから彼を見ないのですが

奇を衒う単語はひとつもない。ひとつもないけれども、こんなドラマにどうやってたどり着くのか、やっぱり想像もつかないのだ。いったい、風という名前がつけられたのは、例えば見知らぬ犬なのか、あるいは人なのか、自分自身の中にある誰かなのか、はたまた、風そのものなのか。想像はいくらでも膨らむし、どれでもあるように思える。その多義性の豊かさ。

そして、なにより大事なことは、これらの「手が届く気がしない」歌の数々は、しかし、ちゃんと「わかる」のだ。自分が過去いくつ火を灯し落とし続けてきたかわからない線香花火たちに潜んでいた空気を、あの永遠に続くかのような青空のもとでの祝祭的な野球の光景を、つながりかけた喜びとつながれなかった寂しさを同時に感じるような何者かとの出会いを、思い出すのだ。

なんてすごい歌たちなのだろう。

私のような凡人でも、歌人人生一生のうちに、2つか3つならば思いつけるかも知れない鮮烈なレトリック。それを笹井宏之は歌集一冊分、詠んでいるだ。とてもかなわない。

凡人ついでに、これまた平凡な想起を記しておこう。笹井宏之の短歌は、宮沢賢治の作品に似ている気がする。雨や風といった自然を鋭敏に感じ、音楽を愛する人、そんな人物の抱く祈りが背景にあってこそ生まれてくる短歌に思えてならない。

手は届きそうにない。それでもなんだかわかる。わかってしまう。美しい音律にのせて。その世界は寂しくてやさしい。笹井宏之の短歌はどこまでもどこまでも詩、なのだ。

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