私とソルフェージュの蜜月で複雑な関係
noteの記事1本目から1,500円で有料販売し始めたやばいやつ、木川です。
いきなりなんでそんなものを売り始めたのか、今日は私とソルフェージュの複雑な間柄をお話ししようと思います。
あらためまして、はじめまして。
木川 翔(きかわ しょう)といいます。
My name is Sho Kikawa. Ich heisse Sho Kikawa. Mi chiamo Sho KIkawa.
東京藝術大学音楽学部声楽科を追い出されるように卒業し、東京学芸大学大学院教育学研究科音楽教育専攻を必死で修了し、昨年度まで7年間、神奈川の学校で専任で音楽の教員をしていました。
音楽科のある学校でしたので、音楽大学に進学したい!という生徒の担任をしながら、声楽やソルフェージュを教えつつ、もちろん普通の音楽の授業や、部活などでも指導をしていました。
一応、音楽家です、と言えるでしょうか。うーん。どうだろう。
今年度独立し、「MUSISM」という屋号をひっさげて、音楽教室をはじめました。
「階名」を用いて「相対音感」を鍛えよう!というコンセプトを掲げています。
はて、「階名」ってドレミでしょ?と思ったそこのあなた。
それは合っているかもしれないし、合っていないかもしれません。
現在の日本で、ドレミは一般的には「音名」として扱われています。
「ピアノの鍵盤、3つ並んだ黒鍵と2つ並んだ黒鍵の間のうち、右側の白鍵に張り付いているド」、「五線譜の下にはみ出た棒付き団子についているド」は「音名」です。
「階名」というのは、「音階」についている名前です。
「音階」というのは「長調」とか「短調」とか呼ばれるやつ。
ドレミファソラシド〜♪と、音痴じゃない人が歌えば、それは長調の音階になっていると思います。
たとえその歌い始めた最初の音が、「ピアノの鍵盤、3つ並んだ黒鍵と2つ並んだ黒鍵の間のうち、右側の白鍵」の高さでなかったとしても、それは正しくドレミ。これが「階名」です。
「移動ド」と呼んだ方が、おそらく多くの方は近いものを感じられるでしょう。こちらが「ドレミ」の本来の用途です。
「ハ長調の状態の階名」を常に使い続ける。
これが「音名」としてのドレミ。「固定ド」と呼ばれる運用です。
さて、今でこそ「階名」を使うことを推奨する私ですが、最初は某大手音楽教室で「固定ド」でピアノを習い始めました。
いわゆる「普通の人」と同じように、私の音楽人生は始まりました。
幼少期〜中学まで
5歳でピアノを習い始め、時には一週間に5分もの猛練習を重ねた私は、それでも長年レッスンに通い続け(て30分レッスンのうち20分喋って)たおかげもあって、中学の頃にはそれなりに「ピアノの弾ける子」になっていました。
好きな曲の楽譜を楽器店で買ってきて、簡単な曲だったら弾けるかな。でも知らない曲はリズムとかよくわからないし、難しいかなーみたいな。
歌うことは昔から好きで、人よりは上手いかもしれないという自惚れもあり、小学校高学年からは市民ミュージカルにも参加。大きな舞台でソロを歌わせてもらったりもしていましたが、ちゃんと歌を習ったことはありません。
将来、音楽家になるなんてことも考えず、でもまあ音楽は好きだな、くらいの気持ちを持ちつつ、普通の高校に進学しました。
高校生になって
いざ高校に進学し、すぐに大学進学について考える羽目になった私は、ここで「音楽勉強しようかな!」と血迷ったことを考えてしまいました。
思えばピアノは弾いていたし、歌も好き勝手に歌ってはいたけれど、それまで「ちゃんと音楽を勉強した」と思ったことはありません。
ここまで続けたし、好きだからちゃんと勉強してみようかな、と、ソルフェージュの先生を紹介してもらい、通い始めることに。
ソルフェージュの先生は作曲家。なんでも即興で弾ける魔法のような手、なんでも聴き取れる魔法のような耳を持っていた先生に憧れて、作曲家になりたいと思うようになりました。先生が藝大だったので、私も志望校は東京藝術大学です。無謀。
高校2年生になってから、和声を1から勉強しはじめました。ソルフェージュや音楽理論の勉強自体、高校生になってからです。
音楽大学進学を考えるならあまりにも遅いスタート。加えて「もう浪人前提っしょ!」みたいな、果糖ぶどう糖液糖のような甘い考えもあって、勉強は全然進まず。
先生からは志望校変更を打診、しまいには「お前は歌の方が早く藝大入れるぞ…」と匙を投げられる勧められる始末。それが高校3年の秋のことです。
周りの藝大志望の友人、藝高生、藝大生と比べて、エベレストのてっぺんからマリアナ海溝の底までよりも距離のある実力差を1年半でひしひしと感じていた私は、「大学に入ってから作曲の勉強は出来るから!」と先生に励まされ、声楽での受験を決めたのでした。
声楽科受験
もちろん、歌は嫌いじゃありません。むしろ好きなので、志望専攻を変えること自体はそこまでつらいことではありませんでした。作曲じゃ無理と感じていたこともあります。
そんなこんなで高校3年生の10月。はじめてイタリア歌曲集1巻中声用を買い、私の声楽科受験は始まりました。藝大の1次試験まで5ヶ月です。
東京藝術大学音楽学部声楽科。
受験のために用意しなければいけない曲数は9曲です。
1次試験で課題曲として8曲提出。最終的に歌うのは2曲ですが、それでも8曲用意して提出しなければいけません。
2次試験は自由曲1曲。ここで受験生は渾身の1曲を持っていくわけですが、私はそもそも1曲も手持ちがない状態。
声楽科ってイタリア語で歌うの?え、まって、歌詞みんな失恋するか死ぬ死ぬ詐欺ばっかりじゃん、やば。みたいな状態ですよ。
それを5ヶ月で(形だけでも)用意しなきゃいけないわけです。
ちなみに私立音大は少ないと2曲、多くても4曲程度でしょうか。
正直、現役で通るとは誰も思っていませんでした。
案の定、1次で落ちました。先生には「意外と2次までは行けると思ったんだけどね〜」と言われました。
受験自体はここからが本番で、それはそれは悲喜交々、涙なしには語れない連続テレビ小説だったわけですが、ここが本題ではないので割愛。
結局2浪して入学しました。
ソルフェージュ
ということで、少しずつ本題に近づいてきました。
私の音楽経験は5歳で始めたピアノから。その前は保育園で、先生と一緒にねこふんじゃったを弾いて遊んでいたくらいです。
本格的に音楽理論やソルフェージュを学び始めたのが高校1年生、そして2浪して受験に臨んだので、ソルフェージュの訓練は入学までに5年行ったことになります。
ソルフェージュを習い始めてすぐ、リズムを読んだり叩いたりするのは結構得意になりました。クレ読みも強かったです。
そして、つけようとしたわけではないけれど、小さい頃から鍵盤を触っていたからなんとなくついたゆるやかな絶対音感がありました。
そう。問題なのは、「ゆるやかな絶対音感」です。
子どもの頃はおそらくそこまでじゃなかったと思いますが、ソルフェージュの専門的な訓練を重ねた結果、私はカラオケのキーが変えられなくなっていました。
むしろ、常に正しいキーがわかるのは音感の証!くらいの意識でした。あの頃の自分を殴りたい。
同じ訓練をした結果、全員が同じ状態になると断言はできません。
ただ、音を「相対的な連なり」ではなく「絶対的な高さの連続」と無意識にでも感じていると、このような方向に進みます。
絶対音感だけですべての音が捉えられるほどではない、かといってカラオケのキーが変えられるようなレベルの相対音感(当時はそんな言葉も知らなかったですが)すらない私は、「致命的に音程のとれないやつ」になっていました。
新曲視唱はハ長調に近ければやりやすい。♯や♭が増えれば増えるだけ辛い。臨時記号も勘弁。刺繍音くらいならいいけど、転調したら逝く。終止音だけは絶対に戻ってくるマンでした。
聴音においても、この致命的な弱点は変わりません。
ハ長調であっても、素早いリズムで跳躍が多いとわからなくなります。臨時記号が増えたり、半音階進行になると何が何だかわからなくなってしまいます。調号が多い場合も同様です。和音を聞き取るのも大の苦手。
最後に合格した時も、ソルフェージュで落ちたんじゃないかと、合格発表まで夜も(真面目に)眠れませんでした。
「新曲視唱」は、「正しい音程がわかっているのに、正しい音程にあたらなかったわー」と見えるような演技力を磨きました。
ハ長調なら歌えるのです。♯や♭は、それっぽく上げ下げしておけば良いのです。酷い考え方ですね。
「聴音」はとにかく楽譜を埋めること。和声聴音は聴こえなくても理論で内声を埋めることだけを考えました。和声勉強しておいてよかった。
特に入学してからのクラス分け試験で私の策略は功を奏したようです。
藝大入学後、最初から「展開クラス」(一番上位のクラス)に入ってしまいました。(この時の声楽科の入学生54人中2人)
おそらく新曲視唱は、本当になんとなくたまたまそれっぽい旋律になっていて(たしかニ短調、臨時記号多かったけど最後だけ偶然レに戻れた!という記憶がうっすらある)、聴音はカンが相当合っていたのだと思います。クレ読みとリズムは強かったので出来ました。
案の定、授業はめちゃくちゃ、むちゃくちゃに苦労しました。
実際の演奏において
受験のためにソルフェージュを練習していた頃、実際の演奏とソルフェージュが結びつくイメージがいまいち持てずにいました。
別に新曲視唱ができずとも、実際に舞台で歌う時にはピアノで十分に音取りをして、練習をして望むわけですから、自分の力で音程を取れる必要ってどこまであるの?と思っていました。
確かにリズムは読めないと、ピアノで楽譜を弾く時に困る。クレ読みもピアノが弾けないから困る。ただ、音は別に自力で取れなくても…?
しかも私は中途半端な絶対音感持ち。音を取るためにはとにかく音高を覚える!という意識に知らず知らず特化した私は、一度覚えた音の高さを記憶しておくことは得意。ゆえに、ちょっと現代曲のような、伴奏とぶつかるような曲も、十分な練習を積めば全然OKだし、便利!と思っていました。
そんな意識で、さらに4年間過ごした結果。
私の歌は、「正しい音を出しているはずなのに伴奏や周りの声となぜかハモらない」不思議な音になってしまいました。
もちろん、発声の問題も大きかったのですけどね。
録音して聞けば、自分の声が調和していないのがわかります。ですが、演奏中にはそれがわかりません。
明らかに音程が狂ってしまっている場合も、それが直せません。曲を一度覚えてしまうと、狂った音高から直すことに、ひどく苦労するようになってしまいました。
ボロボロの演奏しかできない状態で、藝大を出ました。
その後、ずっと音程が合わない苦労を抱えながら騙し騙し歌い続け、学芸大の大学院へ進学。ひょんなことから教員になりました。
耳が変わる
「階名」と言われれば「ドレミ」。
そんなの、当たり前だと思っていました。が、私の理解は不正解。
日本で一般的に使われている「固定ド」は「階名」ではないということを、正しく理解できたのは、教員になり教えるために勉強してからです。
演奏するなら周りの音を聞かなければ、なんて当たり前の話です。
言われなくても常識。その常識のはずのことが、私は受験から大学までの時間をかけて少しずつ少しずつできなくなっていきました。
難しいことをやろうとすればするほど、周りの音を聞かないで自分の音に集中するような感覚。無意識のうちに、まるでラフレシアのような、周りにも迷惑な感覚が自分の中で大きく育っていました。
音楽というものは、そもそも音同士の幅によって成り立っているものです。
それは、「かえるのうたが〜」と歌うとき、どんな高さから歌い始めても、きちんと曲として成立することからもわかります。
音の高さが違うのになぜ曲として成立するのか。
それは、音同士の幅が正しいからです。
「階名」とは、この「音同士の幅」に対して付けられている名前です。
「かえるのうたが〜」は「ドレミファミレド〜」
どんな高さで歌い始めても、この音程幅があっていればそれは「かえるのうた」になります。
反対に、この音程幅がずれていると「音痴」になります。
音楽は「点」の集合ではなく、「線」です。縦(ハーモニー)も横(リズム・メロディ)にも、連なりを伴って初めて音楽となります。
「ドレ」と読めば、そこに長2度がある。「ドミ」と読めば、そこに長3度がある。
音程感覚を頼りに階名を扱う、あるいは階名を頼りに音程感覚を磨く。それが次第に音階を構築出来るようになり、頭の中で素早く調性を組み立てる、感じることができるようになる。
音同士を関連づける聴き方・読み方が前提となり、「点」の意識が「線」の意識に変わる。
長調であれば「ド」から始まり、「ド」に向かって進んでいくエネルギーが感じられる。
これらが「階名」の効能です。
「階名」は常に周りの音を頼りに音を定義します。そして、音同士の幅を感じ取る「相対音感」のためには、これが有用なツールであるということは、知識ではすぐに理解できました。
同時に、これが自分の耳を救う鍵になるのでは?とも。
ただ、「わかる」と「できる」の間には天地の差があります。
特に、さんざんこれまでの音楽経験・ソルフェージュ経験で染みついた「固定ド」から「移動ド」に切り替えるのは、はっきりいって苦痛以外の何物でもありません。
混乱。混沌。当惑。紛糾。
階名を読もうと思っても、目と頭が勝手に音符に固定ドを振ってしまいます。
階名を読むスピードと、音名を読むスピードの違いが大きすぎて、あまりにもストレスフルな時間が続きました。
まるで小学生の頃に戻ったかのような読譜能力になりました。
何より、ゆるやかながらついている絶対音感。
自分にとってはまるで蜘蛛の糸のような、パンドラの箱の底に残ったもののような、そういう代物だったわけですが、移動ドを練習することによって、これすらも消えてしまったら。
これまで出来ていた最低限のことすら出来なくなって、何もかもぐちゃぐちゃになってしまったら、と思うとその恐怖は計り知れません。
何より、これまでずっと「ド」と認識し続けた高さを「ド」以外のものとして歌うことが気持ち悪くてたまりません。
ただ、このままでは自分の耳に先がないこともわかっていました。
清水の舞台から飛び降りるような心境を抱えながら、受験生に戻ったかのような1日30分の新曲視唱の練習を1週間、1ヶ月。
最初こそ気持ち悪いばかりでしたが、少しずつ自分の中で「階名」の感覚が育つのがわかりました。
何より、今はまだスラスラ歌うことは叶わずとも、階名を定規のように使えば、楽器で正しい音を確認しなくとも自分で音程がわかる、ピアノを頼らずに自分の口から正しい音程が出てくる、という経験は、自分にとって天動説が地動説へ覆されたかのような衝撃でした。
ちなみに天動説から地動説へ覆ったのは、天動説を推していた学者が皆寿命で死んで、後に地動説を推している人が残っただけ、らしいですね。どこで読んだか忘れたけど。
生きながらにして天動説から地動説へ切り替えた、そんな私ですが、
「自分が感じる明らかな向上まで1ヶ月」
「歌の旋律を音名と遜色なく読めるようになるまで1〜2年(どれくらい転調するかによる)」
「周りの人が変化を感じるまで3年」
「ピアノでも概ね使えるようになるまで6年」
これくらいの期間はかかったでしょうか。たしか。
子どもが上達するような速度と同じ感じ。
階名は便利なものですが、「簡単」なわけではありません。
特に楽譜上で「階名」を扱うためには「理論」を切り離せないという特徴があります。
反対に言えば、「理論」を無視できない「階名」は、運用し続けることで着実に「楽譜」と「理論」と「演奏」を結びつける効果がある、ということです。
それを「面倒」と思うか、「実用的」と考えるか。
それは学ぶ人に委ねられていると思います。
音だけ並べられりゃいいんだ、という人には必要のないものですが、「音楽的に意味のある演奏」を求めるなら、この訓練には必ず得るものがあります。
ちなみに、今現在もゆるやかな絶対音感は残ったまま。でも無意識にそれが登ってくることはなくなってきましたし、昔より絶対音を判別しようとする際のエラーは増えました。
今となっては固定ドで歌うことの方が、「ドレミ」が音楽に寄り添っていなくて気持ち悪いです。ですが、やろうと思えば昔と同じクオリティでは運用できます。
楽譜上でも階名で相当スラスラ読めるようになりましたし、そもそも音高を何かしらの文字情報(音名)にしなくとも、楽譜上の音符の位置で鍵盤の位置はわかるな、と意識を切り替えられました。
ちなみにピアノを弾く時は、階名を読もうとしなければ固定ドもバリバリ飛び出てきますが、頭の中で音を鳴らす余裕は持てません。階名で読める時は、打鍵の前に頭の中でこれから鳴る音をイメージする瞬間があります。
「音程を取る」ということにおいて、受験生の頃とは比べものにならないほど新曲視唱も聴音も出来るようになりました。
もし最初から「階名」というツールで「相対音感」にフォーカスしていたら、あるいは「固定ド」だったとしても「相対音感」を狙った練習が出来ていたら、と思わずにはいられません。
「聴音」は絶対音感で全て聴こえる人に敵うことは一生ありませんが、受験で求められるレベルなら訓練次第で階名でこなせます。そもそも10歳を過ぎてからは絶対音感は向上せず、完璧な絶対音感持ちの人と同じ聴き方をしようとしても無理があるのは自明の理です。
「相対音感」「階名」の運用は、受験ソルフェージュとは別の、実際の演奏に繋がっています。これを鍛えない手はありません。
おわりに
昨今、音楽大学は入試にソルフェージュが課せられなくなってきました。
というと語弊があるかもしれませんが、一般入試を避け、総合型選抜を使うとソルフェージュはかなり削減されていきます。
よっぽど意識高く、小さい頃からピアノやヴァイオリンをやっている人は別として、ソルフェージュというものは「受験のために練習する」というイメージが強いものかと思います。
それが、受験にすら必要なくなってきました。
受験生は何のためにソルフェージュを勉強しているのか、モチベーションが上がらない状況かもしれません。
ソルフェージュを「音高を取る練習」として考えていると、こういう風に感じるのは仕方のないところです。
楽器が音を出してくれるし、歌だったとしても音源を聴いてピアノを弾いて音を刷り込むように聴けば音は取れるようになります。
そしてそのやり方でも音楽経験を積むことは出来て、音楽的なアイデアも経験に応じて出てくるようになります。
ですが、こうした方法では本来使わなくても良い部分に膨大な勉強時間がかかります。
西洋音楽、クラシック音楽をしようと思った時に「ソルフェージュが苦手」というのは、日本人だけど「日本語の読み書きが苦手」と言っているのと同じです。
何かを勉強しようと思った時に本が読めず、誰かが読んでくれないと文章が理解できない。読んでもらっても理解できたか怪しい。これでは勉強の効率はなかなか上がりません。
さらに、絶対音感がないのに「絶対音感を頼りにする」かのようにソルフェージュを勉強していても、その努力に意味を見出すのは難しくなります。そして絶対音感がある人も「出来ちゃう」のに訓練することに意味を見出せません。
ですが、ソルフェージュは勉強の速度を上げるのと同時に、音楽の解像度を上げるためのものでもあります。
「音楽を読む」の初歩はソルフェージュにあります。ただ、それは「表面的な音高を取るための練習」ではなく、「相対的に音を読み、感じ、意味を見出せるようになること」にあります。
音を相対的に見ることをしていなかった人が、音大に入って突然和声の授業を受けても理解するのは大変です。
大学院に入って、論文のために楽曲分析を!と思っても何から始めていいのかわかりません。
相対的に音を読む方法はいつからでも学べますし、音楽を助けてくれます。
そして、レッスンを通して生徒と指導者が「相対的に音を認識できているかどうか確認しあう」ために、階名は一番簡単な方法です。
固定ドで何も問題なく、何一つ困らずに音楽を扱い、理解出来ている人はそれで良いのだと思います。私の周りにもたくさんいます。
でも、そうじゃない人もいる。私はそうじゃない人でした。
そして、そういう人に「階名というツールがあるよ。こう使えばいいよ。こう練習すればいいよ」という情報すら与えられないのが、ほとんどの学習の場の現実です。
ということで、
「相対音感」にフォーカスし、そのために「階名」というツールを使おう。
私と同じように困っている人は必ずいるから、その人の助けになるものを作ろう。
はじめからきちんと階名を学び、苦労と思わずに演奏と音楽理論を繋げて扱えることが当たり前になるようにしよう。
と思う現在に至ります。
売り込み活動
ということで、突然売り始めた1,500円の有料記事になるわけです。
自分自身が練習を始めた時は、普通の市販の新曲視唱の教材を使いました。
導入当初に苦労を伴ったことは上でも書きましたが、それでも階名が一応読めたのは「曲がりなりにも音大卒業程度、作曲科を目指した程度の理論武装」が出来ていたからです。
階名は「聴こえる」か「読める」かしないと使えません。
どちらかを手掛かりに、出来ないことを出来るようにしていく練習が不可欠です。私は「読める」を手掛かりに「聴こえる」を拡張し、その技術を伸ばしました。
指導者の元で勉強する分には、どちらも出来なくて大丈夫ですが、独習となると話は別です。
「聴こえない」「読めない」ではとっかかりが作れません。
「階名唱のための新曲視唱集」は、昔の私が「こんなものがあったらもっとスムーズに学習できたのではないか」と思う要素を詰め込んだ独習用教材です。
すべての音に階名を振ってあります。
それは「読めない」を排除し、「階名で音程を取る」という相対音感の訓練にフォーカス出来るように、という目的のためです。
最初は順次進行からスタートし、次第に扱う音程幅を増やしていきます。
与えられた音から頭の中で音階を作る作業を繰り返すことが、着実な音階感覚の育成に繋がるので、課題自体は短い4小節とし、課題を繰り返すたびに何度も音階を作る羽目になるようにしました。
リズムで苦労するのは本来の趣旨からずれてしまうので、16分音符以下の短い音価は使用していません。ただ、後半ではシンコペーションやタイの要素は増えていきます。
第1巻は2度〜8度までの音程。音階外の音は一切出てきません。
長調であれば通常の長音階、短調は「自然短音階」「和声短音階」「旋律短音階」で出てくる音のみを扱っています。
まずは着実に、音階の中の音を扱えるようになってほしいという想いからです。
第2巻で音階外の音を含む課題に取り組み、第3巻で近親調(属調・下属調・平行調・同主調)への転調を扱います。
このあたりがスムーズにクリア出来れば、音大受験レベルにも対応できる階名処理能力が身に付けられている、と言えるのではないでしょうか。
しかも、今なら無料レッスンもついてくるっ!
新しい教材を導入する時、やはりその効果を最大限に生かすためには「正しい使い方」「想定している使い方」に沿っていることが重要です。
文字の説明だけでは、音楽の勉強はなんといっても難しい。
でも、せっかく教材を買ってくださった方が、それを有効活用できないのでは、それなりに頑張って教材を作った意味がありません。
決して安易な客寄せ精神ではありません。ありませんよ。
独習用教材と書きましたが、もちろんレッスンでも使えます。
先生に弾いてもらって聴音の教材としても使えます。
楽器で、階名を意識しながら演奏してみることにも使えます。
階名を頼りに移調して演奏する練習にも使えます。
なんて便利!なんて素晴らしい!
一家に一台、「階名唱のための新曲視唱集」!
よろしくご検討ください。
長々とお読みいただき、ありがとうございました。
耳の訓練を主な目標として、こんなチャンネルも持ってます。
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