「行間」が消えないように
演奏会のスケジュールはだいたい2年先まで決まる。
その2年の感じ方が、この1年間で大きく変わった。
2年後、みんな元気だったら良いなと真っ先に思ったとき、大きな切なさが込み上げた。
そのとき気がついた。
何種類もの強烈なパンチを受けながら、必死に進んできた1年の濃さに。
たくさんの人がそうだと思う。
必死に歩くあまり、自分がどれだけ頑張っているか忘れてる人。
辛さや悲しみに囚われないように、あえて振り返らない自立し自律した人。
ずいぶん逞しくなったと思う。
文化全般、関係事業の政府への嘆願も多く見受けられた。
私自身助けられたものもある。個人事業主という立場も、かなり理解度は上がったのではないか、と感じる。
ここで忘れたくないのは、文化に携わる仕事というのは、「もともと」しっかりと理解を得られにくい、ということだ。
コロナ禍の状況というのは、ただわかりやすく露呈されただけだと思う。
音楽はたくさんの人の趣味になるもの。どこからがプロか、という明確な線引きはない。
アマチュアの演奏会も数多くあり、さまざまなアプリで発信することもメジャーになった。
音楽大学も、少子化と相まって実力差もびっくりするほど幅広い。私立はとくに、経営状況も鑑み生徒数の確保は必須である。○○大学出身、といっても、プロを目指せる音大生はかなり限られた数になっていると感じる。
音楽だけでなく、文化人は文化そのものに人生をかけたいと思えば思うほど、商い的な考えから離れていくものだろう。
ただひたむきに打ち込む。
向いているか、向いていないか?
そんな問いが存在することに気がつくとき、大抵はもう、各々の文化の世界で生きているだろう。
そのくらい、形振り構わず渇望する。
文化の神髄に近づきたいという空を掴むような行為を、とてつもなく渇望している。
文化の産物を自分のアクセサリーに使うなど、本当は言語道断なのだ。近年囁かれてきた「商業主義の暴走」はそこにある。個人的な見解に過ぎないが。
生きていくために、商業的なノウハウは必要だ。かといって、闇雲に搾取するのは違う。安易なウケを狙っていくのも軽々しい。
音楽に於いていえば、この演奏が、この構成が、この空間が、この準備が、良質なものと言えるのか、自分に対して一番厳しいジャッジを課すべきと思う。
音楽家など、交通費が出ることなんて極めて異例な待遇だ。時間も労力も全てを含め、これまで投資してきた見返りが金銭的なものとして妥当な対価かどうか、それは考えないほうが良いほどシビアである。
それでもなお、こんなふうに記事を書くのは、文化に携わる人間である以上、文化を汚す愚行に走ることをなにより恐れているからだ。
時事のことに疎くても許される人間ももういないだろう。
同時に、これまで受け継がれてきた言葉の数々を、自分の知として吸収していくことを止めてはいけない。
もっと本を読むべきと思う。
もっと多くの表現に触れるべきと思う。
奥行の無いところに深い根は生えない。
深い洞察力を持った文豪の言葉は、人の心という複雑な機微を教えてくれる。その繊細な行間に閉ざされた愛を読み取る一種の鍛錬なくしては、あまりに表面的で殺風景で表情の無い世界になってしまわないだろうか。
大袈裟な表現、大袈裟な言葉を並びたてたものに、中身を伴わないような胡散臭さも感じるようになるだろう。
文化に携わる人間が提示するはずのものは、それだと思っている。
もう一度、何を知らなくてはいけないのか、どこに立ち返ったら良いのか、訴えかけること。結局は孤独を歩く人間の、奥深い居場所を、いつでも開いておくこと。
これからより多様な在り方が生まれ、手軽になる一方で、ますます混沌とした情報の波が溢れることと思う。そんなときにも本質を見失わない、地に足ついた、そして理にかなったものを提示し続けることが、どの分野でも必要になってくるのではないだろうか。
そして、もし私たちが「石を投げ」て良いのだとしたら、自分自身にだけである。人に「石を投げ」て良い人間などいないということは、いつまでも変わらない。
「はじめに言葉ありき」
何をするべきか、どう自己と向き合うか、与えられた時間をどう生かしていくか。邪念に囚われたとき、何かに挫けそうなとき、本質を純度の高い目で見られるように心がけたい。
いずれにしてもほんの限られた時間。気持ちの良い、風通しの良い心で向かえるように。
クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/