ドビュッシーに寄せて―夏の風の神
アポロンに仕える芸術の女神、ムーサは9人いるが、哲学者プラトンに「10番目のムーサ」と言わしめた女性がいるらしい。
古代ギリシャ時代の女流詩人、サッポーである。
彼女は生前から名の通った詩人だった。政治的なものとは関わりのない、自己完結する恋愛ものを主体としていた。その詩は「頽廃的」であるとされた。
キリスト教が広まるうちに、サッポーの詩は反勢力的と解され、その多くは消失した。学術に長けていたサッポーは、自ら教育の場を女性たちに与えていたが、その行為も同性愛的とみなされた。つまるところの真相は未だ明らかとなっていない。
いずれにせよ、サッポーについては言い伝えの範疇を出ていない。
その神秘ともとれるサッポーの時代にあやかり、「ビリティス」という同世代の女流詩人にフォーカスした作品がある。
古代ギリシャ時代の知識に精通したピエール・ルイスは、1894年、大掛かりな作品を発表した。
《サッポーと同時代を生きた古代ギリシャの女流詩人ビリティスによる詩のフランス語訳》
とした、ビリティス伝と入念な参考文献を載せたものである。
そしてこれはすべて、ルイスの演出に過ぎなかった。
全てはルイスの自作の散文詩であり、伝記や参考文献、そのほか詳細な資料は架空のものだった。
物知り顔に批評を並び立てた批評家たちは、大きく恥をかかされた。
ルイスはおそらく、「してやったり」であっただろう。
この問題児と、音楽界の問題児ドビュッシーは、それこそこの作品の出版された「独立芸術書房」で絆を深めた。
そしてドビュッシーが3度に渡って取り上げることになったこの題材には、いずれもパンが存在しており、ドビュッシー自身も推敲を重ねたお気に入りの作品と言っている。
1897-98年の「ビリティスの歌」の1曲目は「パンの笛」。
1900年に書かれた、さらに発展した形でのパントマイムと詩の朗読作品も「ビリティスの歌」のための付随音楽。
そして1914年に作られた「6つの古代のエピグラフ」は、ドビュッシー自身満足している作品だという。
このエピグラフは、
・夏の風の神、パンに祈るために
・無名の墓のために
・夜が幸いであるために
・クロタルを持つ舞姫のために
・エジプト女のために
・朝の雨に感謝するために
という6曲から成っている。
夏の風の神―
暑く気怠い夏の午後、草むらにまどろむ牧神…頬をかすむ温もりのある風を、ニンフの吐息と書き連ねていくマラルメの詩を彷彿とさせるタイトルであろう。
ドビュッシーを思うとき、パンの存在を忘れることはもはやできない。
さて、この「独立芸術書房」、なかなかのくせ者揃いの溜まり場だった。
ドビュッシーはもちろん、フォーレなどの出入りするような貴婦人方の華やかなサロンにも呼ばれていた。
が、若かりし頃より女癖の悪かったドビュッシーは、婚約中に別の女性と同棲していることが発覚して破談になったこともあり、その不誠実極まりないスキャンダルは、品のあるサロンへの立ち入り禁止を呼び起こした。
それからドビュッシーが転々としたのは、酒場であったり煙草の煙の充満するいかがわしい溜まり場であったり、「優雅」とは程遠い空間だった。
そしてそこで多くの文学者や、とんがった、あるいは屈折した芸術家たちと時間を共にした。ドビュッシーの音楽は、そのようなところから生まれた。
その代表的な独立芸術書房は、ルイスのほかにはジッドやレニエ、さらにはルドンなども名を連ね、やや異質な占星術師、もっと怪しげな専門者たちが集まった。
ドビュッシーはその「怪しげ」に大いに惹かれていた。たぶん、私が知りたくもないドロドロを越した世界にも、その想像は飛躍していたように思う。いや、間違いなく飛躍していた。それは「そちら方面」の書物関係者も証明し始めているらしい。私からはこの程度に留めておきたい。
音楽家は、ドビュッシーがサティを招き入れた。サティは「のんだくれ」のバーでピアノを弾いたりしていたものの、騒動を引き起こしキャバレーさえも入れなかったことがある。ドビュッシーが声をかけたのは、その辺りの時期だろう。
ドビュッシーは長年取りつかれた「ワーグナーの呪縛」から逃れられる方法を、生涯探っていたのではないだろうか。
そのヒントを、このすさんだ文学者たちの世界観に見出し、音楽への実現を試み続けた。そして苦悩し、挫折し、葛藤した。
クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/