【サロンから見る音楽史】 vol.7 革命、そしてフランス・ロマン主義へ

サロンに特化した音楽史の連載、

7回目にしてようやく音楽主体のサロンが登場する時期にさしかかりました。


市民階級の躍進により、かの有名なフランス革命が勃発します。


ここ、バスティーユ広場がその発端ですね。

留学時代の写真を載せておきます。

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何度もここのオペラ・バスティーユに足を運びました。

なにしろ5ユーロで入れてしまうので…さすが芸術の都です😳


さて、話を戻しますが、このフランス革命によってヨーロッパ全体が大きく変わりました。


自由・平等の精神は、芸術家の解放を助長しました。

貴族のお仕え人から放たれて、その個性や感情を作品へ注いでいきます。


ヒロイズム。

激情、熱狂、神秘、そして中世への憧れ。

こうして、「フランス・ロマン主義」といわれる時代が花開きます。


ドラクロワの絵画を思い描いていただくと、フランス・ロマン主義の作品タイプがわかりやすいと思います。

これはルーヴル所蔵の《民衆を率いる自由の女神》(1830)


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ものすごい時代ですよね。


産業革命も相まって、経済も発展。豊かなブルジョワが社会を台頭し、舞踏会やサロンを開くようになりました。

そして「女性はピアノとダンスが重要なたしなみ」という風潮があらわれて、サロンは大流行となります。


ただし

一朝一夕で本物の品位を身に着けられるはずはありません。

当初ブルジョワ市民のサロンは今でいう「婚活パーティー」のようなもので、上流階級の貴婦人たちの教養高いサロンとはまるで違ったものでした。


そのような中、なぜサロンに音楽が必要とされていったのか。

それはまた新たな社会情勢によるものでした。


恐怖政治。


ジャコバン派による過激派政治ですね。

ロベスピエールの暴走劇、その先に自身の破滅も待っているわけですが。


頭脳明晰、行動力、話術、カリスマ性を一身にまとった輝かしい青年であっただろう優秀な人材が、その「言葉」を恐ろしいものに使ってしまいました。


政府に反対する者、

事実であろうがなかろうが捕らえられてしまう者、

「言葉」を発すれば身に危険の及んだ時代の中、人々は次第に哲学や文学、思想的なものを安易に取り扱うことができなくなっていきます。


そこでようやく、鑑賞目的の音楽サロンが発達していくのです。


どこも、似ていますよね。

有名どころでいえばソ連のスターリン。

あの中で、信念を貫き続けて音楽家として生き延びたショスタコーヴィッチやプロコフィエフのことは、いつ考えても身震いするほど感動します。

こういったことも後々どこかで触れていきたいと思いますが、あの方たちの全うした生き方には、一貫して「人類愛」があったことだけは、ここでも言わせてください。


さて、次回からは、いよいよ「芸術の都」パリでの音楽家たちのお話をつづっていきたいと思います😊

クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/