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やれることは限られている。今日やれることをやろう。

<やれること、やれないこと>

そんな風に思って今日の仕事に赴いた、薄々感じてはいたけれど、次々やってくる仕事に対処しているうちに、当初やろうと思っていたことに手つかずなまま、いちにちは過ぎていった。夕方にはすっかり頭も働かなくなっていて、仕事がはじまる午前中に「よしやろう」と思ったテンションも失われていることに気付く。

だめだなーわかってる。わかってるけどやめられない。

そんな風にしてずーっと手付かずな仕事もある。だめだなーって思うけどもそのままでいる。早く着手しなきゃと思う。いつかやらなきゃというのは、きっといつまで経ってもやらない。


<モノとの対峙>

実家にある父が大量に残したモノたちは、そういった意味ではどのように分類されるのだろう。父としては、いつか必要だから取っておいたのだろうが、もう晩年にはどうでもよくなっていたりしただろうか。モノがない時代に生まれ育った父にとって、モノがあるとは豊かさであり、それは僕の世代においても理解ができる。「断捨離という言葉が嫌いだ」と言っていた父だったが、さて亡くなった後に残されたモノたちはやっぱり片付けていかなければならない。

ふと思い返して「いや、捨てなくてもいいんじゃない、置いておけばいいんじゃない」とも思うが、そういうわけにもいかない。傷んでくるし、朽ちてくるし、それを先の世代に残すのも忍びなく、やっぱり片付けていった方が良さそうに思う。というわけで今週も週末にかけて帰省して、たくさんのモノたちと対峙する予定。

「自分にとって本当にだいじなものとは?」という問いは難しい。沢山あるけど、それはまだまだ対峙できてないのかもしれない。対峙するにも労がいる。今日いちにちでやれることは本当に限られている。


<モノには生み出した人がいるはず>

目の前にある数々のモノたちは、どこかの誰かが労力をかけて生み出したモノのはずで、そこには多くの思いが詰まっているはず。プロダクトされたものはそういった歴史性を語らずにただそこにある。

例えば目の前に「MONO」の消しゴムがあるが、これは自分も子供の頃から使っていた消しゴムで、その誕生から今に至るまで、日本で(世界で?)使われるに至っては長い物語が宿っているだろう。

あるいは目の前の「post it」の付箋。誕生にはおおいなるひらめきがあり、開発にあたっては試行錯誤があり、紆余曲折を経ての目の前にある物語がある。無意識に便利に使っているが、それらモノひとつひとつとってしても、語りつくせないバックグラウンドがある。

遠目に都市を眺めてみる。都市それ自体はそこに生まれ育ち行き来した人たちの息遣いそのままが具現化した場所である。2020年現在において東京という都市は変遷を経て今の姿になり、そして更に変貌を遂げていくのだろう。眼前の建物の中には沢山のモノがきっとあるはずで、それらのモノにはそれぞれ特有の物語があり、それら無数の物語に囲まれて私たちは日々生活をしている。たまたま都市は今この瞬間の喧騒に包まれているけれど、集積された騒音を一斉に鳴らしたら、きっと轟音が過ぎて耐えられない。人が生きるとは大きな音を鳴らすことでもあり、モノを生み出し貯め込んでいくことでもあり、でもやっぱり、いつかは捨て去らねばならず、遠目に見る都市の姿を捨てることを考えたら途方に暮れる。都市それ自体が大きなモンスターのようにうごめき、誰にも手はつけられない。やっぱりやれることは限られていて、今日やれることをやるばかりだとつくづく思う(もちろん時に、そんなの大きな間違いだ!と、映画のようにぶっ放したくなる)。

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