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映画『空白』で描かれた喪失のプロセスと正義

ネタバレあります。

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人間は、想像を絶する悲しみ・悔しさを感じ、それゆえに心に「空白」ができてしまったら、なんとかそれを埋めようともがく。渦中にいる本人は必死なので、そこに他者への配慮はなかったりする。自分の正義感を振りかざしてしまう。結果的に、正しくも間違った行為を選択し、他者を不用意に傷つけることもある。

そんな喪失による正義と、当事者もしくは非当事者による百者百様の正義がぶつかり合う、一種の修羅場を描いたのが、映画『空白』だった。

正義というのは、言葉づらだけみると強く見えるが、その実体はとてももろかったりする。その正義は誰のものなのか。表向きには「社会のため」「誰かのため」と言ったって、その「誰か」がそれを望んでなかったら、その「正義」とやらは一体なんなのか。ほんとうは自分を守りたいという自己愛やエゴなのではないか。
特に、万引きをし店長に追いかけられて車に轢かれた娘を持つ添田充(古田新太)や、「店のため」「店長のため」と声高に叫ぶ草加部麻子(寺島しのぶ)を見てそう思う。

さびれた鎖のように絡みあった「正義」がほどけないうちに、さらなる痛ましい死が起きる。別の人間の「空白」が生まれる。
このときを境に、充は表情を変える。人を罵ってばかりだったのに、微笑みを見せたり、謝ったりする。生前の娘を知ろうとする。

人の話すら聞かないような充からは考えられないような行動だが、ある意味喪失のプロセスを真っ当に経ているのかもしれないと思う。


(以下引用)
1)衝撃の段階 
対象を喪失し、情動や現実感覚の麻痺が起こる段階。
涙も出ない、体の力が抜けるなどの身体反応が起こる時期。

2)防御的退行の段階 
現実に直面するのがあまりに恐ろしいため、否認や現実逃避、退行などの心理的な防御反応が働く時期。
外界との繋がりを遮断することもあるが、この段階で少しずつエネルギーを蓄えている。

3)承認の段階 
辛すぎる現実に直面することで、抑うつや、怒り、悲しみ、無力感、罪悪感、不安などあらゆる感情を示す時期。
この段階の苦悩を越えることで、徐々に現実が受け入れられるようになる。

4)再適応の段階 
現実を受け入れ、死を悼む気持ちだけが残り、悲哀感を乗り越え新たな方向へ向かうようになる再出発の時期。


充は2の「防御的退行の段階」で、娘の死のきっかけにもなった青柳直人(松坂桃李)を追いかけ責め続けたり、学校の責任を疑い押しかけたり、周りに強い言葉を投げつけたり、「船に乗らない(=仕事に行かない)」と抵抗したりする。3の「承認の段階」では、怒りまくったりする。
そして3と4「再適応の段階」のはざまで娘と向き合い、時に涙し、受け入れ始め、直人にも謝罪する。

理不尽に娘を失った父親としては、ある意味真っ当なプロセスを経ている気がする。

この映画には、まったく違う意味を持つもう一つの「空白」が存在する。それは、直人と中学生の2人のやりとりしたシーンだ。ポイントとなるはずの場面なのに、頑なに描かれなかった。
中学生が万引きして店内の裏につれていった「空白の時間」に、直人が何かやましいことをしようとしたのではないか。だから娘は逃げたのでは?充はそれを疑い続けた。直人はしっかりとモノを言わないし、過去の痴漢事件も本当に何もなかったのか、それすら100%なかったかと聞かれるとわからない。

この2つ目の「時間の空白」が、1つ目の充の心の「空白」を埋めるための正義に拍車をかけたともいえる。

ともあれ、娘を失うという悲しみに限らず、誰にしも心に「空白」というのはあるのかな、と思う。直人や麻子もそうだし、特段心の空白が描かれなかった野木龍馬(藤原季節)だって、何かしらあるだろう。

例えば今放送されている連続テレビ小説『おかえりモネ』も、震災やそのほかの悲しみといかに向き合い生きるのか、人々の様子を描いている。
主題歌であるBUMP OF CHICKENの『なないろ』も、その「空白」を歌ったものだろう。そういえば最近公開していた『ドライブ・マイ・カー』もそうかな。

『おかえりモネ』は朝ドラだからか、生々しい泥臭さは控えめ。『空白』はそこを描いた。空白を見つめ、いかに埋めるか。そして時間とともに形状変化した空白とともに、これからいかに生きるか。かなり重々しいヒューマンドラマだったが、見ごたえ抜群だった。

(サムネイルは公式HPより)

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