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【アーカイヴ】第218回/人生を変えた音楽 [鈴木裕]

 ミュージックバードの121chで4月から始まった番組「AMATI presents 人生を変えた音楽」のウェブサイトでの説明を見て、ちょっと思い当たったことがあるので書いてみたい。番組は「音楽事務所「AMATI」所属、クラシックの第一線で国際的に活躍するアーティストがリレー形式でパーソナリティを務める新番組。それぞれの人生を変えた一曲とは?(以下割愛)」という内容。自分はもちろんAMATI所属でもクラシックの第一線でもないのだが、ここで書いておかないともう忘れてしまいそう、というのがまずあって、さらに直接的には録音とかオーディオとは関係ないので、オーディオライターとしての仕事で発注を受けることもないだろう。そういう意味でここで書いておこうと。
 初めてクラシックのレコードを買ったのは中学2年生だったか3年生だったか。北杜夫の小説『幽霊』を読んで、その中に出てくる「牧神の午後への前奏曲」を聴きたくなった。近くのレコード屋で見つけたのがストコフスキー指揮ロンドン交響楽団のライブ盤。1972年6月14日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでの、この指揮者のロンドン響デビュー60周年記念コンサートだった。曲目は、ワーグナーの「マイスタージンガー前奏曲」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、そしてメインがグラズーノフの「ヴァイオリンコンチェルト」(ソロはシルヴィア・マルコヴィチ)。今からみるとなんだか前プロ向きの曲ばかりのライヴだが、特にマルコヴィッチの深情けなグラズーノフは好きだった。念のためにこれが人生を変えた音楽ではない。その後、ブーレーズ指揮クリーヴランドの1969年の録音、『春の祭典』のレコードを同級生の味岡くんから売ってもらって人生はねじ曲げられていくのだが。そのことは何回も書いたりしゃべったりしているので割愛。

「ちょっとセピア色に変色したプログラム。
1979年4月9日(月)6時45分。
鈴木裕は、あと2カ月ほどで19歳になる春だった。」

 で、時は1979年4月に進む。法政大学に入学し、その始業式の日だったか市ヶ谷と飯田橋の間にあるキャンパスに行くとさまざまなサークルが勧誘活動をしていた。その中からかねてから興味のあったオーケストラ部のところに行った。楽器経験を訊かれてちょっとトランペットを吹いていたことを伝えると、法政大学には法政一高と二高という高いレベルの吹奏楽部を持つ付属校があり、木管、金管、打楽器のメンバーは精鋭揃い。初心者には弦楽器を始めてもらっているという対応で、そして勧められたのがヴァイオリンだった。なぜ、コントラバスでもチェロでもヴィオラでもなくヴァイオリンだったのか。そのあたりのやりとりはまったく覚えていない。とにかくそうかヴァイオリンかと。なにしろそこに行くまでヴァイオリンを弾こうとか弾きたいとか人生で一度も思ったことがなかったので、「考えてみます」と応えて昼過ぎに帰宅したのだった。

「当日の曲目。
ちなみに東京シティ・フィルは1975年に自主運営のオーケストラとして
指揮者・堤俊作を中心に若い世代の演奏家たちによって設立。
当時まだスタートしたばかりのオーケストラだった。
81年か82年に生で聴いたマーラーの第10交響曲(アダージョのみ)の名演奏は忘れられない。」

 その日の夕方、何を思ったか自転車でふらふらと走りだし、気がつくと自宅から6km程度のところにある上野の山に着いていた。子どもの頃は京成電鉄の「博物館・動物園駅」がまだ稼働していて、時々その駅を使って動物園に行ったものだ(調べてみると1997年まで営業していた)が、その時は東京文化会館の前にいた。当日の大ホールでの演奏会は「東京シティ・フィル特別演奏会 水野佳子ヴァイオリン協奏曲の夕べ」。指揮は堤俊作。プログラムはウェーバー:歌劇「オイリアンテ」序曲で始まり、ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第一番、休憩をはさんでシベリウス:ヴァイオリン協奏曲という流れ。これを指揮者の真下、最前列で聴いた。いわゆるかぶりつきだ。目の前には水野さんの銀色の靴が見えていた。

 演奏全体は覚えていないが、水野さんの演奏の細部、あるフレーズが始まる瞬間の右手の角度や表情、ブレスの取り方。そして溌剌としたリズム、生き生きとしたフレーズのことはフラッシュバックのように蘇る。ブルッフもシベリウスもイメージが残っているが、なにしろ輝かしいもの、美しいものを体験したという印象。そして、水野さんがシベリウスの3楽章で落ちたことも覚えている。暗譜している譜面を忘失し、ソロパートの演奏がいなくなっわけだが、堤俊作が自分用の大きいスコアの該当する部分を指で差し、水野さんがそこを覗き込んで復帰した。あのシーンも克明に思い出せる。

 シベリウスが終わって、照れながらの水野さん。客席からの暖かい拍手。そのときになぜか唐突に、よしヴァイオリンをやろうと決めたのだった。

 そこから4年間、毎日よく練習したし、定期演奏会に至るまでのパート練とか、当時は五日市青年の家というのがあって、そこでの合宿練習とか。いろいろな演奏会にも行った。他の大学のオーケストラとの交流もあり、特に国立にある一橋大学の連中との関係は深かった。国立での練習後、お酒を飲むと終電がなくなり、時に彼らの下宿に泊まったものだ。彼らの定期演奏会で、その音が大好きだった古澤巌さんがシベリウスのコンチェルトをやることになり、お願いしてその伴奏を弾かしてもらったことも。青山学院のオーケストラからエジプトの演奏旅行に行く時には誘われて参加。ジュネス・ミュージカル・オーケストラでは、朝比奈隆さん、尾高忠明さん、小林研一郎さんたちの指揮に生で接して、指揮者ってこういうものなんだということを教えてもらったのも人生の大きな財産になっている。

 最近でも時々ジュネスの元メンバーと会ってお酒を飲みながら話したりもするのだが、彼らは立派な社会人として仕事をしつつもいまだにトップアマチュアとして活動していたり、あるいはプロの指揮者、演奏家として活躍しているメンバーもいる。そういう人たちと音楽的に同じ地平で話ができるものたのしい。あの時、よしヴァイオリンをやろう、と思わなかったら今の自分はいなかったのは間違いない。

「プログラムに掲載された1979年当時の水野佳子さんのプロフィール」

 いまでも音楽を聴いていて演奏者目線というか、弾いている気になって聴いているというのはあのヴァイオリン=オーケストラをやっていた時代なしには考えられないし、そういう弾き手の気持ちがわかるような再生という意味ではオーディオに直結している。あるいはオーケストラを再生する時にはついつい大きめの音量になるのも、実際にその中でヴァイオリンを弾いていた一人として、オーケストラの音はデカイ、という呪縛から逃れられない。

 ちなみに水野さんのことは、その後、長い間どこでどうされているのかまったく知らなかったが、10年くらい前に水野佐知香さんとして活動されているのを発見した。今でもプログラムをみるとせつない気持ちになる。水野さんの演奏は、あの1979年4月9日の夜だけしか聴いていない。シティ・フィルのコンマスとしての水野さんの演奏も聴いていない。短くない人生の中から見ると点のような瞬間だったが、あの時水野さんのコンチェルトを聴かなかったらと考えると、あのブルッフとシベリウスがまさに人生を変えた音楽だったのだ。

 あの時からちょうど40年目の4月にミュージックバードの新番組からこんな文章を書けたのも何かの因縁に感じる。

(2019年4月26日更新) 第217回に戻る 第219回に進む 


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鈴木裕(すずきゆたか)

1960年東京生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。オーディオ評論家、ライター、ラジオディレクター。ラジオのディレクターとして2000組以上のミュージシャンゲストを迎え、レコーディングディレクターの経験も持つ。2010年7月リットーミュージックより『iPodではじめる快感オーディオ術 CDを超えた再生クォリティを楽しもう』上梓。(連載誌)月刊『レコード芸術』、月刊『ステレオ』音楽之友社、季刊『オーディオ・アクセサリー』、季刊『ネット・オーディオ』音元出版、他。文教大学情報学部広報学科「番組制作Ⅱ」非常勤講師(2011年度前期)。『オートサウンドウェブ』グランプリ選考委員。音元出版銘機賞選考委員、音楽之友社『ステレオ』ベストバイコンポ選考委員、ヨーロピアンサウンド・カーオーディオコンテスト審査員。(2014年5月現在)。

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