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一枚の扉



「隣がおかしいのよ」
妻が言った。

小さな家に住んで長くなった。マンションとは言い難い、鉄骨造りの3階建ての1室が我が家である。2004年2月に借りた。

それまでは店で暮らしていた。2003年5月20日に開業した「ミュージカンテあまね」が住居だった。契約では違反なのだろうが、それとなく大家さんは察していたようで、見逃していたのだと思う。

その頃の僕は荷物がほとんどなかった。多店舗経営に行き詰まり、精算して身を軽くし、再起をかけての出店だったから、着るものさえあれば良かったのだ。「ミュージカンテあまね」を何とか続けていけそうで、当時付き合っていた妻と相談し、開店翌年、店から数分の場所に居を構え、一緒に暮らし始めた。

やがて結婚した。

笑ってしまうほど狭い我が家である。
それを妻は恥ずかしいと言ったり、もっと広い家に引っ越したいと言って嘆いたりするが、ごめんねと謝って、いまだに住んでいる。

背伸びすれば、広い家に住むことが出来るのだろうとは思う。けれど、店がうまくいかなくなったらどうするのかとも思う。水商売、絶対はない。

現に、30歳で運良く持ったカラオケボックス、川崎市高津区子母口の店、ジャック&ベティは、初年度から数年は数千万を売り上げたが、その後競合店の出現で、恐ろしいほど売り上げが下落した。儲けられると他が気づいた時が勝負の始まりなのだ。

そうして戦いに破れ、店が居場所になった僕にしてみれば、我が家というのは素晴らしく贅沢な空間だった。

「洗濯物が干したままなの」
妻の言う『隣がおかしいのよ』の理由はそれだった。

洗濯に関しての妻の几帳面さは、一緒に住み始めた当時、驚いた記憶がある。すごく丁寧なのだ。干し方にもこだわっているようで、何故だかわからないけれど、見ているうちに、それが我が家の洗濯のデフォルトになった。

ベランダ目一杯に干した洗濯物を、妻は建物の下から見上げることがよくある。きちんと干してあるか、いつ乾くか、雨は降らないか、どうやって畳むかなど思っているのだろう。いつの間にか、忙しい妻に代わり、僕も洗濯物を畳むようになっていた。

「バスタオルとバスマットが、ずっと干してあるの」
「隣の人、そんなこと、今まで一度もなかったよ」

隣とうちは道路に面していて、ベランダの様子が下からわかる。たしかに1週間くらい前から、バスタオルとバスマットが干しっぱなしで、バスタオルにおいては、強風でハンガーにぐるぐる巻きになっていた。

「どこかに行ってるんじゃないの? 旅行とか」

心配性の妻をなだめるべく僕は言った。が、いや、おかしい、もしかして、と言う。その「もしかして」は、室内で倒れているということ、事件ということ、隣は高齢の女性なのだ。

都会では、干渉されない気軽なマンション暮らしを求める人も多いと思う。近所付き合いを避け、余計なストレスを回避する人もいるだろう。

だから、妻の疑問をすんなり受け入れることは僕には出来なかった。こちらの思い込みでアクションを起こすのはどうなのか? おかしいと思い、管理会社や警察に連絡するのは、万一、単に旅行などで不在だったなら、行き過ぎた行為ではないのか?


「明日1日様子みて、変わらなかったら、調べるね」と言って寝た。

朝、起きたら、また妻が言う。
「ねえ、やっぱりおかしいよ」

月曜日は燃えるゴミの日、妻はベランダにあるゴミ箱から、今朝まで溜めたゴミを取ったついでに、隣のベランダを、隙間から覗いたようだ。バスタオル、バスマットはそのまま。

外へのゴミ出しは僕がし、先に出かける。妻はその後にパートに行く。化粧をし始めた背中に向かって言った。
「気にし過ぎじゃないの?」
「それくらいのことで騒いだって、管理会社とか、相手にしてくれると思う?」
「気になるんだったら、自分で管理会社に電話すれば?」

この言い方に妻が怒った。
「なに? その言い方、ムカつく!」
そしてバンと音を立てて、たった1枚しかない室内の扉を閉めた。本当に狭い狭い我が家なのである。

この、バンと音を立てて扉を閉められ、完全無視されたことは、何十回、いや一緒に住み始めた頃から数えたら何百回もあると思う。数日、口を聞いてもらえなかったことも数えきれないほどある。

年の近い3人兄弟の末っ子で育った妻は、物心ついた頃から兄弟喧嘩が日常茶飯事だったようで、無視、口聞かないは慣れっこだ。片や、長男で、年の離れた妹を持った僕は、親にこそ反抗したけれど兄弟喧嘩の経験がなく、無視や口聞かないは、妻と付き合い始めて学んだ新しいカテゴリーで、それがすごく自分には堪えたが自分を変えた。

自分本位だったのを、それではいけないと教えてくれたのが妻だった。

思い直して、数十分後、管理会社に電話をした。
「あの、お節介かも知れませんが、うちのお隣の方、ずっと洗濯物が干しっぱなしなんです」
応対に出た女性が、ありがとうございますと答え、こちらで連絡してみますと言った。

夜、店へと家を出る。電気を消し、下に降りたら、ばったり、隣の女性に会った。
「あ、こんばんは!」
「あの、もしかして?」

隣の女性は生きていた。最悪の状況ではなかった。
話によると、女性は1週間前、救急車で運ばれ入院したそうだ。洗濯物を取り込む暇もなく、そうして、今日退院して戻ってきたのだと。

「管理会社に連絡してくれたのは」
「あなたですか?」

「はい、僕ですが、実は妻がとても心配して」

「そうですか。では奥様によろしくお伝えください」
女性は深々と礼をした。

「狭いながらも楽しい我が家」そんな歌がある。その通りかなと思う。狭い家、狭い空間、すぐ近くにいるからこそ、気づくことがある。引っ越さなくて良かったと思った。妻はそう思っていないだろうけど・・・

【追記】
動画は「私の青空」です。古い歌ですがどことなく幸せを感じますね。

https://youtu.be/AaLNCAArmgo


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