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宇宙に願ったら豪速球で願い通りの人が現れた話。

たまに以前のnote見返すと面白いことが書いてあったりする。


一年前の記事で、恋愛について触れている。ここで書いてるのは自分の理想というか、自分の好きな感じの人やその人との関係性についてなんだけど、この後ひょんなことから親しくなった人がいて、まさにここで書いたような自分なりの哲学を持ってる人だったので、驚いた。自分の好みを明確にしておくことはとても大事だと思う。こんな記事を書いたことすら忘れていたのに、ちゃんと自分の求めている相手には出会えるのだなと思う。

宇宙は 「求めよさらば与えられん」なのだ。求めたら、どのようなルートで来るかは分からないが何かしらの形でやってくる。自分の予測もしないところから出現する。だから、求めなくては。それが誰なのか何なのかハッキリと分からなくても。今夜はこれに関連して、 ユニバースにリクエストして、願った通りの人が現れた話を書こうと思う。



***


昨年、私はマッチングアプリをやっていた。そのマッチングアプリでは何人か会ってみたんだがすぐに身体の関係を持ちたいという人や、会っても一回会ってなんとなく終わりになる人ばかりだった。あるいはセフレみたいになったりとか。いずれにせよ微妙だったのは言うまでもない。その頃は占いをし始めたばかりで、占いでもそれ以外のプライベートでも、飲み歩いては色んな人ととにかく会ってみて、その刺激を楽しんでいたように思う。


そんな最中、とある男性から夜中に会おうと誘われて、近所で飲んでいたので了承した。待ち合わせ場所に着き、会うとすぐに「外でいい?」と聞かれた。

「え?」

「外でしよ?」

「はぁ?」


「こ  れ  は  な  い  !!!」


いやいやいやいや、いくらなんでもこれはない。せめてホテルに行きたい。いや、そう言う話でもないんだけど。とにかくこれはない。ふざけんな!そう思って早々にお開きにした後、一人でまた飲み屋街を歩きながら思った。「こんなに身体の関係を求める男性ばかり会うのは、私が何か根本的に間違っているのではないのか」……と。別に身体の関係が悪いのではない。それを悪いと思ったことはない。だけど「今欲しいのはこれではない」と思った。そして歩きながら、自分はどんな関係が欲しいのか、何を求めているのか、自分に問い直した。


「もっと大事に人との関係を育てていきたい」

「人を愛してみたい。愛されてみたい」

「私の相手はどこにいるんだ」

「私のパートナーがもしいるなら、現れて欲しい」

そう願った。

思い返すと、それまで私はただ何となくメッセージが来る人と会ってただけで、私は何も願ってなかったのだ。スタバの店頭で注文せずに待ち、出された試飲を飲んで「これじゃない」と言ってるようなものだ。味の好みくらいは伝えなくては。店員さん(宇宙 )も困ってしまう。


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 それからすぐ、別の人からメッセージが来た。その人は今までの人とは全然違った。気軽に友達になろうというノリで、普通にご飯を食べたり、色々な話をしたりした。趣味の話やこれまでの人生の話をしてくれた。それまでとは全く違う接し方をしてくれる人だった。あまり負担にならないメッセージのやりとりや、誘い方をしてくれて、彼自身も無理をしない人だった。


私のそれまで知っていた人との関係が、いかに打算的だったのか、いかに刹那的だったのか、いかに相手にも自分にも敬意を払わないことだったのか…。彼と会ううちに少しずつ違いを認識できるようになっていった。


その人は「特定のパートナーを持たない」という考えの人だった。今はいらないとかではなく、もうずっとなのだという。

お陰で、付き合うという口約束がなくても、人との関係は作れるのだと知った。こう書くと当たり前のことなんだけど。今まで、口約束することで親密になっている気がしていただけだったのだと思う。もしかしたら、ゆっくりお互いを知ってゆくことが「付き合う」ことなのかもしれないが、私にはそれが出来てなかった。だから今このようなかたちで「関係をゆっくり育てたい」その願いが叶っているのだと思う。

適度な緊張感と距離感が生まれた。感情的になってその時の自分のぐちゃぐちゃを相手にぶつけることがなくなった。「寂しい」と言って構ってもらおうとすることがなくなった。相手に会いたい時は気軽に誘うが、断られても凹まなくなった。相手も気軽に誘うので、それを受けるかどうかは私も選べるのだと知った。無理して料理を作らなくても手伝ってくれるのだと知った。いつも無理して関係を維持しようと頑張っていたけど、そんなことをしなくてもいいのだと知った。お金を払ってもらうこともあるし、自分も多く出すこともある。自分の時間をゆっくり過ごし、余裕のある時だけ会うのでいいのだと知った。自分のしたいことをしていることを否定されないのだと知った。休みの日に無理して会おうとしなくていいのだと知った。無理してセックスしなくていいのだと知った。自分はそれっぽいデートなどほとんど求めていなかったのだと知った。

「彼氏だから」「彼女だから」そういうカテゴリー分けや定義づけに一番振り回されていたのは他ならぬ私自身だった。「彼氏だから」という言葉で、今まで何度も人との境界線を侵害してしまった。人との境界線。それをずけずけと超えていく免罪符こそが私にとっての「彼氏・彼女」だったのではないだろうか?だとしたら、今まで自分がしていたことは恋愛とは名ばかりの「ひとの領域を侵す」行為だったんじゃないだろうか。ベタベタと甘え、依存し、無理して他人となんでも共有しようとし、自分がなくなるほどに相手のことを自分に取り込もうとしていたのではないだろうか。あるいは自分の主張を相手に理解してもらい実行してもらおうとすることばかりしていたのではないだろうか。そういうことの一切が「する必要のないこと」だったのではないだろうか。


付き合わないことで、もっと相手を知りたいと思うようになった。少しだけ、相手を気遣えるようになった。相手の好意を素直に受け取れるようになった。相手もまた、自分と会いたい時だけ会っているのだと思えることは純粋に嬉しいことだった。それはある種の誠実さがあることだと思うようになった。もしかして、口約束をしないほうが、純粋に人と交流出来るのではないだろうか。そう、純粋なのだ。過度に期待することもなく、されることもないのだ。その純度の高さが感じとれるようになった。


もちろんこれからどうなるのかはわからないんだけど、それはそれ。私は私のすべきことをしながら、人との交流を楽しみたい。だから、余力で関わるくらいでちょうどいいのだ。そう思えたら、もう変な焦燥感に駆られることはなくなってきた。そして、相手の気持ちや行動はコントロール出来ないが、私が相手を好きかどうかは分かる。私の責任の範疇は私のことだけ。だから、私が相手を好ましく思うならそれでいいのだと思う。

あと、これもまた大きな変化だが、誰とでもセックスはできるが、誰とでもしなくていいのだと知った。持つことは可能だが、選んで、持たなくてもいい。もちろん持ってもいい。もしかしたらこれが満たされているということなのかも知れない。

自立した個人だからこそ、人との交流も出来るのだ。自立してない人は本質的には誰とも交流出来ないのかも知れない。相手に依存してしまうから。評価を相手に委ねてしまうから、そして認められるために自分を偽り、相手の求める自分を演じ、やがて誰でもない人になり、魅力がなくなり、存在が認識出来なくなる。そして、関係が壊れて、またそこでよくやく自分を取り戻す。そして誰かと出会い、相手に依存し……。もうそういうループは断ち切らなくては。


自分はやっとひとりの人として、舞台に立てているのではないだろうか。今日はそんなことを思う。


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