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日々、新しくなっていく。

知性的で在りたい。それは、単純な学力を指すわけではなくて。理知的な、理性的な、というか。広い視野を持ち、いつでもフラットな状態で居られることが望ましい。たとえ学力があったとしても、そうではない人というのもたくさんいるなと思うし、自分と相手を尊重できない鈍さを携えて、人の家に土足で入り込み怒鳴る人というのは存外身近にいるのだと感じる。


昔から頭のいい人が好きで、見た目とかよりも頭の良さに惹かれることが多かった。今思うと、その知性に興味があったのかなと思う。それは相変わらずで、今でも話の分からない馬鹿は嫌いだし、あまりにも思考のプロセスが理解できない相手とは距離を置いておきたいと思ってしまう。

中学は進学校に行ったのだけど、そこは、各学校の頭のいい子だけが集まってるような場所で、そこでの私の成績は中の上くらいで、学年でいつも5番以内とかにいる頭のいい人に、勉強のコツを聞いたことがあった。

そうすると彼からの返答は「出題者の意図を読むこと。この単元ではこれを学習してほしいんだなとか、そういうのが分かれば、どこを学んだらいいのかわかる」というまさかの答えが返ってきて(ちなみに中一だったと思う)、中学生の時の私には、なんだか分かったような分からないような感じで終わってしまったんだけれど(笑)。今思うとたしかにその通りで、テストの先の教師という「人間」を見ている彼と、目の前のひとつひとつの問題にあたふたしている自分とでは、そもそも学習のスタンスが違いすぎたのだなと思ったり。そういう冷静さと視野の広さや要領の良さが彼の賢さだったんだろうなと思ったり。

そういう、わりかし頭のいいある種の「変わった人たち」に囲まれて過ごしたことは、とてもいい体験だったのかなと思う。彼らは皆ユニークでおもしろかった。大学に入ってから、ああいう人たちは案外少数派なのかも知れないと知って衝撃を受けたけど。(大学って普通は個性的な人たちに触れたりして刺激を受ける場所なんだと思うけど、私にとっては大学のが凡庸としていた)


大人になってからの方が、何かを知りたいな、学びたいなと思う気持ちは強くなった。学校の勉強というのは、強制されるもので、私にとっては本当に苦手で苦痛なことだったんだけど。

でも、何かを知ることは好きだし、詳しくなることは喜びでもあるので、知識や知性への飢えのような気持ちはずっとあったのかなと思う。



「学びたいんだ、でも、知りたいのはこれじゃない」

子供の頃、そういう気持ちってなかっただろうか。私の場合の「学びたいんだ」というのは、体験してみたい、実際に検証してみたいんだ、ということなのかなと思う。100冊の野菜の本を読むよりも、実際に観察してみたい、育ててみたい。食べてみたい、というような。

学ぶ場所(と聞いて人が発想するところ )に学びがあるのではなく、日常のどのようなところにも科学や物理学や、哲学や思想や心理や、そういうものは溢れていて、垣根はないのだと思う。それらを感じ取れる感性や知性を持ちたいと思う。


例えば、桜はなんで春が来ると花だけが咲いて散った後に葉が出てくるのだろう。一般的には芽が先で、葉をつけてから花ではないか。なぜ逆の順番なんだろう。そういう疑問を持つことすら忘れてしまった、知らないことって実はたくさんあるんじゃないのかな。


この商品がこの値段で売れるのはどうしたかな。どういう戦略で、どういう経営をしているのかな。誰が作ったのかな。それはマーケティングや経営学に通じてくるのではないか。

あるいは、流行とは何か。人を扇動するものが何なのか、何が人を動かすのか、とか。異常者とされる人々は何に行動原理を置いているのか、とか。


知に対して無邪気で在りたい。それを阻害するのが「大人として」とか「いい歳して」みたいな思考回路なんじゃないかな。「もういい大人なんだから」とか「今からやってもしょうがないから」とか。何がしょうがないのだ。馬鹿なのか。お前はこれから先の数十年を馬鹿のまま過ごすのか。知的好奇心の扉は、いつでもすぐそばにあるというのに。


例えばこれらの植物の名前や生育環境さえ、今までの私は知らなかったわけで。それを知り、実際に育てながら観察しているのはとてもおもしろい。単純に水をあげて日光に当てれば育つわけではなくて、土とか温度とか、それぞれに適した環境があって。自室の中でそれに適した置き場所はどこかな、とか。水をやりすぎてないかなとか。買った時より葉が伸びてきたな、とか。それだけでなんだか随分と楽しいし、愛おしい。


そうやって日々、新しくなり続けたい。






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