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ただ、そこに立つことが革命になる。

今日のぼんやりnote。

連休の最終日。今回はわりとだらだらと過ごしてしまったんだけど、暇すぎると何かを探してしまう人なので、やはりnoteくらいは書いておこうと思い立って今こうしてタブレットに向かい合っている。
色々なことを中途半端に手をつけては途中にしているのだが、何かを仕上げる気になれない。

占いも、今までの路上占いだけではなくて、何かを加えたいんだけど、何をしたいか、問いかけている。多分、講座とかそういうものになるんじゃないかなと思う。

読みかけの本も読み終わらないし、作りかけの金継ぎも乾燥中なのでまだ待っているし。掃除も中途半端で、なんだかそうなると充足感がないのがしんどい。自分でリズムを作って暮らさないと、途端にだらしなくなってしまう。

せめて、とこうして喫茶店で文章を打っている。自宅でももちろん出来ることなんだけど、たまに場所を変えてやるのがいいのかも知れない。邪魔になるものがないから。気が散らない。
そう、気が散るのだ。ということは、きっと自宅のものが増えすぎている証拠なのだ。余計なものは見えない方がいい。

こういう日は、自分のための文章と、自分のためのリーディングをする。2年前、オラクルカードによく助けられた。今でも、自分の励ましのためによく使用している。その中にある真理のカケラが私を励まして、癒してくれる。それがとても好きなのである。
インスタも、自分のために書いているし、noteも自分のために書いている。この、「自分のために」がとことん出来ないと、おもしろいものにならない気がする。
だれか読者を想定して書くことは、私は本質的には向いていないのだと思う。誰かのためのリーディングや占いの記事を書いてみるんだけど、なかなか読まれなかったりするので難しい。逆に、自分のまとめのつもりで書いているものの方が、人に届いたりする。ここはもう少し検証の余地があるけれども。
でも、自分の内に籠って、内にあるものを大事に抽出していく作業が、きっと必要なのだ。そうでないと、言葉が安っぽくなる。誰かのために無理をした結果、私ではなくなってしまう。まだ、そこは練習が必要な領域なのだ。

オラクルカードの話に戻ろう。誰かを占う時にはタロットを使うことが多いんだけど、もともとオラクルカードの方が使用歴は長い。絵柄が気に入って買ったのがきっかけで、昨年はステイホームも手伝ってたくさん種類を増やした。その時その時で自分の使いたいカードを使っているんだけど。買った時は使いにくいかもと思ったものが、あとから大活躍することがあるので、なんとなく気になるものは購入してみることにしている。
タロットは人の世界に合わせている親切感が好きなのと、人に話すときも具体的に出来るところが好きだ。人の相談をタロットで見た時の、細やかに映し出される内面や状況の描写が、親切だなと思う。
オラクルは、その点やはり抽象的なので、人の日々の悩みには私はタロットが扱いやすいなと思っている。
でも、オラクルは優しいし励ましが多いので、自分が少し疲れた時や迷った時にはオラクルメッセージで、自分を励ましているのだと思う。

辛い時や、なんだかうまくいかない時、自分をどうやって鼓舞するのか。セルフリーディングとセルフケアで何とか立ち上がらなくては…という思いでやってる。もちろん、自分を助けてれる仲間は居るんだけど、結局自分の力で立つしかないのだ。

自分のことは見ない方がいいっていう人もいるけど、私はガンガンにセルフリーディングはした方がいいと思う。
自分のことも冷静に見る訓練は、他人を冷静に見る訓練にも繋がるし、自分の意見とカードの読み解きは別のものだと認識する訓練にもなる。ひいては、それが自分が宇宙と繋がる訓練にも通じるのだと思う。
自分にはまだ認識出来ない領域にある情報を引き出す訓練が、リーディングなのだとしたら、その情報をどう受け取り、変換し伝えるのかというのもまた訓練だ。

これは個人的感想だけど、出来るだけ、自我が前に出てくるのを消し去りたい。その方が幸福度が高い。リーディングも精度が高くなる。思えば絵を描いていたときも。自分が透明になっていくのが好きで描いていた。集中しているっていうのかも知れないけど。

結果的にだけど、そうやって自我を制御し、無心になれる能力は、私の社会生活も変えてくれたように思う。
会社での振る舞いや言動も、前より落ち着いて出来るようになったし、自分の分からないことを知ったかぶりすることなくなったし、ミスを素直に謝れるようになったし、自分の意見や考えも感情的にならずに言えるようになった。側から見たら当たり前のことかも知れないけど、強固に「自分」にこだわりすぎるよりも、自分をいい感じに消せるようになってからの方が、かえって自分が表出するようになった気がする。

「自分が社内で上司にどう評価されるか」ばかり考えて居る人とか、「自分は間違っていない」という主張に明け暮れる人っていくつになっても存在するんだけど、そういうのって側から見ると丸わかりだったりする。
私には、そういう計算は出来そうにもない。だったらそれなりに自分に誠実にして居る方がストレスが少ない。少なくとも自分は。
出来ることは出来るといい、分からないことは相談し、出来ないことはここが出来ないって素直に言うだけで、社会生活は随分楽になるのだなと思う。こういう誠実さって地味だけど大事なことなんじゃないか。それがやがて信頼に繋がるんじゃないのかな、と思う。

こうしてただ自分に誠実にしていようっていうのは、もしかしたら変なことなのかも知れない。自覚はないけれど、独特だとよく言われる。でも、現行の地球のでは奇妙に見えるかも知れないけど、自分にとっては自然な在り方なのだったらそれでいいじゃないか。
少なくとも、そうして息をして生きていることが、誰かにとってはイレギュラーで、「こういう人も存在するんだ」と思えることって、人を自由にする部分もあるんじゃないか。そういう異分子になれるなら、それは私にとっては大歓迎なのだ。

別にそれは、取り立てて個性的な生き方じゃないかも知れないけど、自分に誠実に生きるっていうのを持っていることで、世界にとっての異分子になれるなら、私はそうなりたい。そうやってそれぞれが、自分の道を歩くことで、世界の異分子になって始まる革命があるんじゃないか。わざわざ誰かと戦わずとも。


その場にただ、立つということが、革命になるのだ。


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