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辻占日誌:無料での占いをやめた理由

今日は晴れている。それだけのことが嬉しいのだから単純だ。

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引っ越し当初に挿し木にしていたアイビーは、根付いて立派な蔓を伸ばしている。この垂れ下がり具合が最高。しっかり葉も増えた。

引っ越し当初の写真を見ると、挿し木したてなのでただ枝がぴょんぴょん挿してあるだけだ。ここから根が出て、葉や芽が出て、だんだんと生い茂ってきたのだと思うと生命のエネルギッシュさに嬉しくなる。

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占いをやり始めてから、人の相談や愚痴聞きの相手役になることをやめた。正確には、お金をいただくことなしに、無料で愚痴聞きの相手役や相談所になることをやめた。この理由を少し書いておきたい。答えはシンプルで、どんな段階であってもお金は貰っていいと思うから。仮に未熟であっても、趣味であっても、好きでやっていることでも。そうやって「未熟だから」「趣味だから」「好きでやってるだけだから」と言い訳して無料や過剰なサービスをしないためでもある。そもそも、趣味でも好きでやってることでもお金は貰っていいと思っている。


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あと、無料で相談を受けて失敗したケースのが多いから、というのもある。

「占って欲しい」と言われて無料で占ってみたことも勿論あるのだけど、正直に言うとあまり意味がなかった。無料で占った人たちは、気に入らない結果は無視するか他の気にいるアドバイスを信じるか…せいぜいそんなもので、相手には何も届かなかったのだ。結果を言った時「え〜でもぉ」と言い訳が出てくる。無料の相談は無料、有料と同じように答えてもその人が受け取らないのであれば、何も響くものはないし、人生を変えていく力はないのかも知れない。これは単なる時間の浪費であり、互いに何も生まない。

お金を払うことで「一線を越える」ことが大事なのではないかと思う。彼らは自分の選択でこの占いを「受ける」ことを選んだ。それに対して私は真摯に応える。その場で生じる互いへの尊重が、人の相談ごとを扱う上では大事なものなのではないかと思うようになった。ここへ来てくれたあなたもギフト、そして私もギフトを互いに贈り合い、交流をする。そのギフトがお金という形を取っているだけなのではないか…と思う。

相談したい側がただ愚痴を言いたいだけで、相談を受ける側もそれに対してあーだこーだと言いたい放題言うだけなら無料でいいのかもしれない。むしろそれは親しい友人と酒場でかわすやりとりで充分だ。でも、これはそうじゃない。相手の言葉や情報から知りたいことを読み取り、占いをし、結果を読み解き、相手に伝わるよう変換して伝える。話しを聴くというのは案外精神力を要する行為で、どれだけ自我を挟まず、私的意見を挟まずに聴くことが出来るかが大事だ。それなりに集中力がいる。もちろん好きなことではあるが、だからこそこれは無料ではやってはいけないことなんだ、とも思うようにもなった。


前提として、困っている人などいない。可哀想な人などいないのだ。全員好きに生きている。困りたくて困っている。苦しみたくて苦しんでいる。それを解いていくのだとしたら、それは本人がそれを求めないといけない。「これを変えたい。変えるには?」と。それが発生しない場所では何をどれだけ話したとしても無駄なのだと思う。愚痴を聞いて慰めても、人はまた慣れ親しんだ苦悩に戻っていく。そういう時、虚しさに打ちひしがれる。そんなことを何度も味わいたくはない。


だから、直接的に「受けたい」と言われた時にしか占わないし、相談や愚痴も聞き流すか、そっとその場を立ち去ることにしている。今のところそれで困ったことは起こっていない。一番私を無料の相談役にしてきた母親とも離れたし、メールで長文が来ても返事をしないか「大変だね」の一言で終わらせる。一生懸命相手のために返事などしてやらない。「困った」「大変だ」となんでも大袈裟に話して周りに自分の心配事を撒き散らし、引っ掻き回してきた母親を無視する。それだけで、私の周りには私を相談役にしない友人がいたことに気がつく。あるいはきちんとお金を払って受けてくれる友人もいる。そういうときはお互いに気持ちのいい時間を過ごせる。ありがたいことだ。そうやって自分の世界の平穏は自分で守らないといけないのだと学んだ。


周りの人間がナチュラルに搾取していく人だと気がつかにくいのかも知れない。私自身もそうだったのかも知れない。もしかしたら、今もそういう部分は残っているのかも知れない。そういう自戒も込めてこの記事は書いておく。



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