夢十夜 / 夏目漱石

近代文学で一番好きかもしれない。
ことある毎に思い出す、そして噛み締めて味わうような文章。
  
物事の論理や因果を求められて、囚われて日々食うために働いている日常から、文章の世界に没入できる。

一方で、書かれている情景や下地となっている場面設定は、どこかで経験したことのあるようなもので、自分とほど遠くないような感覚を覚える。

それぞれの夜で終末がしっかり書かれているものの、それがどういう意味合いなのかさっぱり分からないのも良い。

漱石の言葉だけをなぞって読めば、さも会得したような気になるが、真に心を読み解くことは難しい。
安い言葉で言うなれば、『理解できないけど共感はできる』状態であろう。

心地の良い分からないに当たるたびに、この小説は夢伽(ゆめとぎ)なんだろうな思う。

中学や高校の国語の授業で、時間をかけて読み解き解釈した事実は覚えているが、いったいどんな解釈に辿り着いたのかは一切記憶にない。

立ち返って、いまの世の中でどんな夢十夜を観れるのか考えてみた。

明治でも令和でも同じく見れる情景は貴重となっていることに気づいた。
日常を表現するときに、いかに片仮名や舶来語を多用しているかとも。

“スーパーマーケット”ひとつを表現するにも、”商店”はあまりにも違和感があるし”総合食品量販店”では色気がない。

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こんな夢を見た。
目を瞑って、はっと気がついたときには座席にもたれていた。
座席の布張りが好みのものであることを再び確かめると、窓の外に目をやった。

蒼と真白の2色で埋められた景色に、鳩尾から息を吐き出す。

行き先まではまだ暫く乗るのだということは判った。どこで降りるのかは判っていないし、降りる必要があるのかも判らない。
ただ、暫くかかるという事実だけは確信していた。
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こういうことゆっくり考えてる時間が、
自分の中で静か広がっていくこの時間が、
いちばん幸せで楽しいのかも。

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