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Japan Ver. シイタケ〜千年を超える日本の歴史

◆逸話 : 9世紀頃から日本産シイタケは主に中国に輸出

わが国で乾しいたけが何時頃から食べ始められたかは、はっきりしないが、9世紀頃、中国の食文化が入ってきたに違いない。
恐らく、わが国で食べるというよりは中国への輸出が主目的だったのだろう。
中国への日本産の輸出は、恐らく日本に乾しいたけの食文化が渡来した9世紀頃、同時に始まったと考えられる

当時は野生しかない時代で、わが国で採れる量は僅かしかなかったが、その殆んどが中国への輸出に向けられていたのだろう。
生(なま)を乾して食べる発想は古代中国人の優れた知恵で、保存に都合が良いばかりか、乾せばうま味が増すこともよく知っており、乾物の多くは中国で生まれている。

乾しいたけ渡来は、伝説では弘法大師(774~835)が唐(中国)から帰国後、乾しいたけの食習慣を伝えたと言われる。日本はあらゆる文明文化を先進国の中国から学ぶのに懸命で、茶は9世紀初頭、僧の永忠が唐から茶を持ち帰り、嵯峨天皇に献じた記録があり、乾しいたけも弘法伝説定かではないが、その前後であるかもしれない。  

日本産シイタケは鎌倉時代から文献に登場し、高級食材として日本、中国で重宝されていた。
文献に乾しいたけ(当時の呼び名は苔(たい)または椹(じん)、日本産は和椹)が初めて登場するのは永平寺の開祖、道元が著わした「典座(てんぞ)教訓(1237年)」で、仏法を学ぶため留学していた道元が中国の老僧(典座)から日本船に積んでいった。
日本産乾しいたけを題材に教えを受ける逸話が幾つか記されている。中国でも、しいたけは採れてはいたが、日本産を求めたのは、美味しさ、姿、形など品質の点で、自国で採れる乾しいたけよりも格段に勝っていたからに違いない。
当時、船の往き来もままならない遠い日本から高い金銭を払い、わざわざ日本産を取り寄せたのは中国が大国で財力もあったが、それだけ食材としての魅力があり貴重な存在であったからだろう。

わが国における乾しいたけの食の歴史は9世紀頃に始まるが、15世紀までの6百年間、乾しいたけは典座教訓(1237年)を除いて文献には全く現れない。

この間、殆んどが中国へ向けられ、国内では口にすることが余り無かったからだろう。

◆室町〜戦国時代のシイタケは歴代武将に献上

椎茸という文字が最初に記された文書は、足利幕府の政所執事代、蛭川新右衛門地親元日記(1465年)で、伊豆の円城寺から足利義政将軍に乾しいたけを献上した記述がある。
それから数十年、16世紀に入った頃から乾しいたけは料理書に現れるようになる。
大草家料理書・食物服用の巻(1504年)の点心(菓子)乃図に乾しいたけの図が描かれているのをはじめ、朝倉亭御成記(1568年)には乾しいたけの菓子が出ており、大草家料理(1573年)には白鳥料理の匂い消しに乾しいたけ料理をすすめている。また、里う里乃書(1573年)には乾しいたけ入りの五目飯、津田宗及茶湯日記(1578年)、同、他会記(1583年)、今井宗久茶湯日記(1587年)、行幸献立記(1588年)、利休百会記(1591年)、南方録(1593年)、文禄四年御成記(1595年)、松屋久政茶会記(1596年)などには菓子、精進、汁物、煮物などに乾しいたけが登場している。 
安土桃山時代、豊臣秀吉が聚楽第に御陽成天皇の行幸を仰いだときの行幸献立記には、乾しいたけが入っており、乾しいたけは最高のご馳走のひとつであったことを窺わせる。

◆江戸時代より、シイタケの人工栽培がはじまる

江戸時代に入り、しいたけの人工栽培が始まり、天然採取に比べ生産量は格段に増え、市中への出回りが多くなったことで、乾しいたけの料理書への登場も多くなる。
この頃になると、乾しいたけは武士階級や町家の分限者、やがて、庶民も口にできるようになるが、盆、正月、法事など「はれの日」のご馳走に限られ、汁物、煮物、五目寿しなどに使われた。

◆シイタケの学名Lentinula edodesエドデスは、イギリスのチャレンジャー号航海探検※1がきっかけ

 シイタケの学術論文登場は19世紀からシイタケ(椎茸、学名:Lentinula edodes、英語:Shiitake, Shiitake mushroom)論文はチャレンジャー号探検において1875年に日本で採集された標本に基づく。1872年から1876年にかけてのチャレンジャー号探検航海(チャレンジャーごうたんけんこうかい、Challenger expedition)とは、海底や海洋生物、海水温などを調査し海洋学の基礎を作った多くの発見が行われた科学的探検航海であるなお、シイタケの種小名の edodes を「江戸です」から採ったとする説がある。
イギリスの菌類学者マイルズ・ジョセフ・バークリーによる1878年の原記載論文には学名の由来は記されていない。
ギリシア語で「食用となる」という意味の語は εδωδιμος であり、ラテン文字に置き換えると edodimos となり、これに由来すると考えられている。英語でもeditableは、食べれるの意味。
なお、江戸にちなんで命名された学名では 、yedo と表記される日本を代表とする桜ソメイヨシノ(染井吉野、学名: Cerasus ×yedoensis (Matsum.) Masam. & Suzuki ‘Somei-yoshino’)がある。

◆現代:シイタケは世界に愛さるキノコへ

 シイタケは世界へ 英語、フランス語などでもそのまま日本語に基づき「シイタケ」と呼ばれる。
欧米では秋に流通する多くのキノコ類の中にシイタケも含まれ、伝統的な食品流通である朝市のほか、大手スーパーマーケットでは菌床栽培品のパッケージが売られている。ブラジル、フィンランド、アメリカ、オランダ等でも栽培するようになってやはりshii-takeの名で販売している。
栽培技術の最近の改善に続いて、米国およびカナダの市場および食卓で急速に人気を博しています。
さらに、キノコ専門会社が用意したシンプルなキットを使用して、自宅で栽培することができます。
欧州では食事法「マクロビオティック」の食材として重宝されているという。ブータンではキノコの消費が多く、西岡京治の農業指導によってシイタケがもたらされて以降広く普及している。   

◆※1チャレンジャー号科学探検航海(チャレンジChallenger expedition)とは、

1874年から1876年、イギリスのエディンバラ大学とマーキストン・キャッスル校で研究を行っていたスコットランド人のチャールズ・ワイヴィル・トムソンの提唱と説得により、ロンドン王立協会はイギリス海軍から軍艦HMSチャレンジャー号(1858年進水)を借用し、1872年に博物学と化学の別々の研究室を備え付けた科学調査船へと改造した。
海底や海洋生物、海水温などを調査し海洋学の基礎を作った多くの発見が行われた科学的探検航海である。探検に使われた船であるチャレンジャー号にちなんで名付けられている。

チャレンジャー号はジョージ・ネアズ船長に率いられ1872年12月21日にイギリスのポーツマスを出港した。トムソン自身の科学的監修の下、ほぼ70,000海里にわたる測量と調査行を行った。
その結果は地理など他の発見とともに、4,000の未知の新種が目録にまとめられた。
1882年に没したトムソンに代わり報告書の出版を監修した海洋学者ジョン・マレー(John Murray)は、この報告書を「名高い15世紀から16世紀にかけての発見航海以来の、我々の惑星(地球)に対する知識の最大の進歩」と表現した。

チャレンジャー号は1,606日にわたる航海のうち海上で713日を過ごした後、68,890海里(127,580km)の旅の間に、492回の深海測量と133回の海底浚渫、151回の開水面でのトロールによる海底調査、263回の連続的な海水温観測、そして4,717種の海洋生物の発見を行った。チャレンジャー号探検航海に関する文書記録の写しは、サウサンプトンのイギリス国立海洋学センター(National Oceanography Centre)、タインアンドウィア州カラコーツ(Cullercoats)のダヴ海洋研究所(Dove Marine Laboratory)を含むイギリス各地の海洋研究所に納められている。

スペースシャトル・チャレンジャー号は、この探検航海を成し遂げたチャレンジャー号から名付けられている。

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