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ごっこ遊びの終わり

最近、自分は一体何がしたいのかわからなくなってしまい、困惑している。これといった人生の目標もないし、ただ惰性と習慣で生きているだけである。誰かのようになりたいだとか、ある種の人たちから仲間だと認められたいだとかいった欲望も昔のようには湧いてこない。何かを羨ましく思ったりすることもあるが、それを手に入れたとしても、思ったほど嬉しく感じられないに違いないと見当がついているから、羨ましいという感情自体が虚しく思えてしまう。

遂に煩悩から解放されたのではないか、という説もある。いつのまにか解脱していたのだろうか。しかし、一時間に一度は何かしらの不安が頭をもたげるし、一日の半分程度は鬱屈としながら過ごしているから、やはり解脱とは程遠い。さらには、美味しいごはんが食べたいし、お酒を飲んでぼんやりしたいし、1日16時間ぐらい寝たいといった欲求はいまだ消えておらず、煩悩に塗れたままだ。

カート・コバーンもしていたという脳内インタビューをたまにする。いま温存しているのは、「僕はコピーバンドができれば幸せっていう人間なんです」という発言だ。かねてから創作よりも模倣のほうが楽しいと感じており、ギターで何か演奏するにしても、誰かの弾いたフレーズをコピーしていればそれで満足だ。しかし、問題はいくら上手にコピーができたとしても、興味を持って聴いてくれる人はあまりいないという事実である。だから、人に聴いてもらうために仕方がなく曲を作っていると言っても過言ではない。さすがに感覚が鈍麻したとはいえ、自作曲を人前で披露することは恥ずかしいといえば恥ずかしい。

自分にとって創作意欲の源泉も模倣にあるといえる。音楽に心を動かされたときに「こんな音楽が作ってみたいぞ!」といった衝動に駆られる。まさにこれがモチベーションとなって曲を作っているわけだ。自分にとって曲作りは、「作曲家さんごっこ」のようなものだといえる。子どもの頃の「ごっこ遊び」の延長なのだ。

ミュージシャンはなぜオリジナリティを発揮しなければいけないのかという疑問に関して、いまだにそれらしい回答が出せていない。世間的にオリジナリティがないとダメそうな雰囲気が漂っているので、それっぽく仕上げているに過ぎない。つまり世に言うオリジナルらしさを模倣しているのである。

とはいえ、紋切り型のパロディ表現に出くわしたりするとむかっ腹が立ったりするので、オリジナリティへのこだわりがないとはいえない。おそらく「解釈」という方向からオリジナリティというものを見ているのだと思う。

最近は急な寒さで感性が凍ってしまったのか、加齢でアンテナが錆びついてしまったのか、何かを模倣したいという欲望も湧いてこなくなっている。ルネ・ジラールという人が「人間の欲望は、他者の欲望の模倣から生じる」なんてことを言っている。このところ、「これだ!」という他者の欲望に触れられていないような気がする。人付き合いを避けた結果がこの体たらくか。

作曲家への憧れが自分のうちにあったのは確かだ。ピアノの上に置かれた譜面、ペン、マグカップ、灰皿。こうしたイメージに憧れていたのだ。しかし、才能の有無は措くとしても、自分が曲を作る人であることが既成事実となってしまった今、その憧れは消えてしまった。それっぽいことをやっていればそれで満足できていたワナビーの時代は今や過ぎ去ったのだ。ごっこ遊びの終わりである。自分で自分に憧れるわけにもいかないし、こうなれば自分の仕事に取り掛からねばなるまい。しかしそれが何であるのかはまだわかっていない。

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