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バンドの人格

トリプルファイヤーの新作リリースを控えているため、トリプルファイヤーがバンドとして人々にどういう印象を与えているか、人々からどう見られているか、自分たちとしては人々からどう見られたいと考えているのか、といったことをどうしても意識せざるを得ない。

しかし、意識したところで100%ハンドリングできるものではない。バンド側は、見せるという意味では主体であると同時に、人から見られる客体でもある。この「見せる/見られる」という関係のせめぎあいからバンドのイメージは浮かび上がってくるものだといえる。あくまで相手との関係のなかで規定されるものだから、決してバンド側の思惑通りにはならない。

これはバンドに限った話ではない。私たち個人の日常においても同様である。私の性格は私一人では決められない。周囲との関わり合いのなかに現れるものだからだ。しかし、性格はあたかもその人の所有物のように捉えられている。いささか腑に落ちない。「そちらがこちらの性格を決めつけたのだからその責任はそちらで取ってくれや」と主張してみたくなるが、「はあ?」という顔をされて終わりだろう。

なかには「俺は他人からどう見られようがまったく意に介さいないね」とうそぶく人もいる。しかし、たとえ本人がそう考えていたとしても、多くの人はそう主張する人物を「人から自意識過剰な奴だと見なされたくないと思っている自意識過剰な奴」だと見做すに違いない。それで当の本人が意に介さないのなら問題はないのだが、「自意識とかじゃないから。本当に意に介してないから。なんで信じてくれないの」などといって弁解を始めると事態は泥沼と化す。

世界には他人の内面を見透かせるという特別な能力を持った人が、我々の考えている以上に多く存在するらしい。なんとおそろしい能力だろうか。できれば見透かさないでもらえるとありがたい。しかし彼らにはそれが見えてしまっているから、当人がいくら弁明したところで無駄である。「図星だからムキになっているのだろう」などと言われて終わりだ。

内面を見透かす力を持った人にも、指摘に対して修正を試みる人にも、それぞれのリアリティがある。話がややこしくなるのは、位相の異なるリアリティを下手にすり合わせようとするからだ。両者は必ずしも一致していなくても構わない。むしろ距離があったほうが良いとさえいえる。両者の間にある溝、あるいはそこに架けられた橋のようなものこそが人格だと捉え直し、その責任を両者で分け合うのがいくらかフェアでないかと考える。

いくら他人から内面を見透かすようなことを言われても、いちいち真に受ける必要もない。かといって他人の意見をノイズとして排除してしまうのはやりすぎだと言わざるを得ない。さしあたり他人の言うことは聞くだけ聞くという構えでいたほうが良いと思われる。というのも、人の話が聞けなくなり、フィードバックが機能しなくなったときに、私たちは袋小路に陥いりがちだからだ。それで他人の話は聞けるうちに聞いておいた方が良いという結論に至った。アメリカのドラマに登場する主人公のボスがしばしば口にする「オフィスのドアはいつも開けておく」といった態度である。むろん人の話を黙って聞ける人間は稀な存在だから周囲からありがたがられるという打算もある。

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