日々は日を重ねて書くんだから、それは当たり前だろう。

昨夜はかかってきた電話で長話をしていた。こんな時間なのに大丈夫だろうかと思いながらも話を聴いていた。

自分は全部肯定して気持ちに寄り添うことなどできないから、思うことを正直に言った。こういう考えもあるのだと伝えた。

多くの場合、行動や発言するときは無意識だ。前提となる感覚があまりに当たり前だから、擦り合わせる必要がないと思ってしまう。初めはそれさえも考えないけれど、初めが去ってずれてきても考えようという発想にならないことも多い。だから相手がこういう感覚で生きているかもしれないと思ったことを伝えた。

自分が思う普通なんて簡単に崩れてしまう。だから優しさや思いやりは難しいんだ。感じ方が違うことは知っているはずだけど、他の感覚はやっぱり信じられないから争いが生まれるし、離れてしまう。それで繋がれることもあるし、もう仕方ないことなんだ。自分だってこれまで散々身勝手に離れてきただろう。そのくせに偉そうに言葉にしてはこれが正しいと思い込ませるんだ。こんなの全部間違ってるよ。

真面目な話で言葉尻が笑っているのも、真正面で向き合えばへらへらしているのも、そのせいだ。真っ直ぐ見つめられないのは間違っている証拠なんだ。そんなことを思ったら、急に謝りたくなった。

今日は昼前に起きて、食事をして部屋を出た。

好きなバンドの新譜を聴いたら凄く良かった。なにより、あの人が作った曲だと分かるところが凄い。これまで同じようなことを言う友人に何の共感もできなかったけれど、やっと分かった気がする。

果物や野菜や肉を買って帰る。行き道は向かい風が強くて逆らうだけで精一杯だったけれど、帰り道はあまり風がなくて進むのが速かった。

音楽雑誌のインタビューで読んだ、一般的な聞かれ方だとバンドサウンドは打ち込みに負けてしまうという言葉を思い出していた。もどかしさと納得が同時に落ちたような感覚になった。

別に迫力や厚みだけを求めているわけじゃないことをちゃんと知ってほしい。その人が作るものが好きだから聞くんだと改めて思った。

なんだか皮肉だ。もちろん打ち込みでも好きな曲はたくさんあるし、自宅でできるその気軽さも素晴らしいと思う。でも、本当に鳴らしている場だけで録れる空気感は確かにあると信じたい。

それよりそんな計算をしながら作っていることが嫌だったのかもしれない。計算は感性を邪魔してしまうから、それが寂しかったのかもしれない。ここまで繋いできたせいでもうすっかり麻痺してしまって、もっと純度の高い色を求めてしまうんだ。どっちでも好きに変わりないんだけど、そんなこと思ってしまう自分も嫌だな。でもこうして言葉や感覚が残ったのは確かだから書くんだ。

帰宅して風呂に入る前に米を炊いた。洗濯もしたいし、もう大人なんだし食べ過ぎるのもやめたい。


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