あの時から住所は変わってしまって、君が書いた手紙はきっと届かないよ。

今日は成人の日らしい。それは祝日で休日らしい。祝う日を休みにするのはクリスマス休戦みたいでいいなと思った。

でも、表面上の煌めきに隠れた残酷さを持ち合わせていることに気付いてしまった。

明確な理由があるのに行かないことを躊躇っている人がいるらしい。そういう文章を読んだ。自分はその決断をするとき、全く気にも留めなかったからそんなに重大なことだと捉えている人がいることに純粋な驚きがあった。

会いたい人には会いたい時に会えば良いし、会いたくない人の群れにわざわざ行く理由が分からなかった。その他にも自分の中で明確な理由があったけれど、言いたくないことを言うよりなんとなく伝わる口実で周囲は納得したように見えた。

そして別のことをして過ごした。行かなかったことなど今の今まで忘れていたし、悩みなんて無限だと思った。本当に人の数だけあるんだ。

今になって思い返せば、親は子供が成長した姿を見たかっただろうなとぼんやり考えた記憶がある。

自分の人生だから自分で決める、というのは正しいと思う。でも自分の人生でも自分だけで生きていけるわけではないから決断は難しい。人が重なるほど複雑に絡んでしまって、いつのまにか意見や主張や伝統や文化に振り回されてしまう。

唐突に全ての縁を切りたくなるのはそれが面倒なのかもしれないと気づいた。ある種の本能なのかもしれない。

昨日は椎茸を焼いた。蓋を開けて煙が立つ瞬間、良い匂いだと感じた。そんなこと思ったことなどなかったのに、なぜか顔が綻んだ。自分で料理したからかもしれないし、大人になったからかもしれない。

年をとっても克服できた食べ物なんてほとんどないし、むしろ自分で選べる分苦手が増えるような気さえしていた。でも気付かないうちに鈍感になって、これまでもっと激しいものに掻き消されて気付けなかった味や匂いを感じられるようになったのかもしれない。

相変わらず低い音は聞き取れないし、辛いものも苦いものも食べられないし、寒暖差にも弱い。何も変わらないままだ。少しの知識を増やし、生活は怠惰になって、ちゃんとすることから遠のいた日々を送っている。

引っ越しもしたし、ご近所さんは知らない人ばかりで、散歩をしたって猫や犬とも知り合えない。それでも過去に戻りたいなんて思うことはあまりない。たまにはあるけど。

今日は昼ごろ起きて、ご飯を食べた。椎茸の残りも食べた。そして、今日の空に浮かぶ苦悩や祝福を考えていたけれど、やっぱり自分には関係ないので考えていたこともすっかり忘れて芸人の話で馬鹿みたいに笑っていた。

たまに真面目になる彼らは、どこまでも逃げ続けろと言っていた。その口実が好きなことなら最高だと思った。

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