千切ったパンの怪獣を、見えない敵と戦わせた。

昨日は久しぶりに体を疲れさせたから昨夜は一瞬で寝た。それなのに今日も起きたら夕方だった。

起きて、特にすることもないから漫才を見て、ラジオを聞いて、ご飯を作った。食べる前に風呂に入って、夜だ。

風呂に入ると1日の終わり感があるから、まだ起きたばかりなのに充実した日だったかのような感覚になった。

そういえば昨夜は配信ラジオみたいな会話を聞いていたんだ。それは久しぶりだったけれど、変わっていなくて相変わらず良かった。良いことを言うでも、笑わせる内容でもない。最近はなにがあったとか、僕たちはこうだとか、取り留めのない内容だけど、いろんな人の意見が積み重なって厚くなっていく感じが凄く好きだ。

自分が気になったことをすぐに別の誰かが聞いていて、こういう人とは思考の仕方が似ているんだろうと思った。疑問に思うことが同じなのは、思考の繋げ方が似ているということだと思う。当たり前のようだけど、昨日の大きな発見だった。

彼らは言葉で遊ぶし、思考を捻る。食べ物で遊んではいけないのと同じで、無意識のうちに自制していたことだって別に悪ではないのだと教えてくれる。

他人として聞いているだけでは凄く愛おしい話をしていた。生活を共にしていれば、配った気持ちも少しずつ鬱陶しさに変わるのかもしれない。

相手から見える世界のことは無視して、ひとりが話すだけだからそれを聴く自分たちは自然と話す人の側に付くことになる。第三者は便利だ。どちらに寄っても関係を持たないから手放しで感情だけを揺らせる。

終わりは淡白で、それも良い。それから途中で止めていた食事を再開した。

肉や魚や米やパンを食料だと捉えるのは人間だからで、世界から言えばそれらだって木々や粘土や鉄や雲と同じだろう。そこにあるものを、食べられるからという理由で別のものに使ってはいけないなんてことはない。

子供の頃、そんな質問をするのは変だろうと決めつけて聞かなかったことを今更考える。変なことは思ってはいけないと無意識に思い込んでいたことを今更になって考える。どうしようもなかったことだけど、もっと誰かと思考し合えばどうだっただろうかと思った。

こうやって馬鹿な人間は掴めなくても哲学に縋ったり、分かったふりをしたりするんだ。

馬鹿というのは考えて解決するための行動を取らない奴のことを言うのだと彼は言ったと、本に書いていた。

最近、これは忘れたくないと思うことがよくある。こうやって言葉で残してもそれは忘れてしまうし、消えていく。でもそんな中でも不意に現れる感覚も確かにあるから、記憶に残ることを期待して書く。本当に忘れたくないことはもっと詳しく書く。

そして今日もこのくらいのことは考えたし、とか甘えて夜更かしするんだ。

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